ホーム入所者全員の生活を監査?
92年9月、私は厚生省の示した「老人福祉施設等の指導監査について」を批判する小文を福祉専門誌に書いた。老人ホームの入所者全員に対して「個別処遇方針の策定」を義務づけるという厚生省の監査指導に対して、国が個人の生活を記録し、評価し、方針を立てることの危険性を指摘したものだった。
その中で私はこんな事を書いた。
「お金の流れについての監査は、各種の帳簿類と領収書で帳尻があう事によって監査できます。しかし、人間の生活についてまで書類で監査しようという発想には無理があるのです。(これは)人間の生活に出納帳(ケース記録)や貸借対照表(個別処遇方針、処遇評価会議録など)を当てはめ、どれだけの損益(リハビリ効果、ADL評価、知能評価スケールなど)が出たかを監査しようという手法です。」
いま私は、この意見を訂正しなければならない。厚生省指針の監査では本当に肝心なお金の流れはわからないと。そしてまた「個別処遇方針の策定」が最も必要なのは、厚生官僚自身ではないのかと。
“お付き”を従えての大名監査
この批判が掲載された翌年の93年、「偶然」にも私の勤務する特別養護老人ホームに厚生省の監査が入った(通常は毎年、県の監査班が監査に来る)。帳簿記録の全てを隅々まで開示しなければならない緊張感は、受けたものでないとわからないかもしれない。厚生官僚との不正な癒着が問題になった某福祉グループと違って、私の勤務する法人になんら恐れる事柄はないが、事務処理にはチョイミスが付き物だ。
厚生省監査は終わればなんでもないことだった。しかし私は監査よりも、こんなことが気になった。
2日間にわたる監査には、厚生省の監査官を案内するために県の職員が同行する。その移動には県の公用車が使用される。違和感をおぼえたのは、朝から夕方までの監査の最中、県の運転職員は一日車の中で待っていたことだ(ホームのまわりはバスもタクシーも走っている)。こちとら限られた措置費の中で、ぎりぎりの人員配置なのだ。現場は猫の手も借りたい忙しさで、入浴や排泄、食事の介助をしている。そのかたわらで、県のりっぱな運転職員は一日中ただ厚生省職員を待っている。待つだけに県税が使われているのだ。外国の要人が来たのではないのだ。国家公務員とは、それほどにVIPなのだろうか。
私はこのようなことも一種の官官接待だと思う。この感覚の延長線上に、食糧費で接待をしてしまう体質があるように思えてならないのだ。それが当然と思える人達から、税金である措置費が適正に使われているかを指導されるのは、なんとも釈然としなかった。
現場職員の訪問も拒絶
93年。この年は、先日収賄容疑で逮捕された岡光序治前厚生事務次官が推進したといわれる「ゴールドプラン」にもとづき、全国の市町村が地域ごとの特性に合った「老人保健福祉計画」を策定し公表する時期にあたっていた。99年までに整備すべき特別養護老人ホームやデイケアセンター、ヘルパーの数など、具体的な期限と達成目標を明記した計画の策定は、従来の福祉計画と比べると画期的であった。「今回厚生省は本気だぞ」という印象は、福祉現場の志気を高揚させていた。
その時期、ある老人福祉の専門誌に編集スタッフとして招かれていた私は、「偉い先生ではなく、普通の現場職員が厚生省を訪問し、一生懸命国民の福祉を考えている厚生省職員と共にこれからの夢を語り合う」という企画を、他の現場職員とともに提案した。編集部事務局が厚生省と交渉にあたり、誌面の枠もとり取材に出向く日程や現場職員の人選も整った。ところが、取材直前になって厚生省側から断られてしまった。
話が厚生省上層部に伝わったところ、「誤解を招く恐れがある」との理由で取りやめになったのだという。厚生省は、自らを雲の上に置いておきたいとしか思えない。現場へは、権限の鎧をまとい監査に来るが、現場の職員の訪問は取材ですら認めないのである。
市民に無力感を植え付ける権威主義的体質
たしかにこれらは、私的で小さな出来事だ。しかし特別養護老人ホーム職員の私にとっては、大きな出来事だった。実はここに本質があるのだ。市民は、こんなささいな出来事を積み重ねて、自分は権威に対して無力だと信じこみ、自分の意見を正直に言うと損をすると思いこみ、あきらめていく。薬害エイズのような大きな犯罪の温床も、じつはここに由来しているのではないだろうか。権威の側がそのことをよく知っているからこそ、患者と国民をなめきった、あんな証拠隠しが行えるのだ。
おなじ穴の狢(むじな)?
もっとも、このような市民に背を向けた体質は、厚生省の官僚に限ったことではない。特別養護老人ホームは、措置費という国が定めた公費(税金)で運営されている。私の給料もその措置費から出ている。厚生官僚と特別養護老人ホーム職員は、市民から見れば同じ立場ともいえるわけだ。
私を含む特別養護老人ホームの職員も、利用者に対する姿勢として同じような体質を持っていると思うことがある。入所型施設の持つ閉鎖性と自己完結性を鎧に、利用者に対して善意を押しつけ、自らを省みない体質である。日々おのれを戒めているつもりであるが…。
ただ、福祉事業の末端にまでこうした体質が染み着いてしまっているとすれば、それは、福祉の個々の担い手までが厚生省の絶対的な許認可権限によってがんじがらめに縛られていることの反映なのではないだろうか。実際、現行制度のもとでは、地方自治体は厚生省の顔色をうかがうのが主な仕事のようなものだ。正直私だって、日々ホームの会計のやりくりに苦心しているなかで、厚生省との太いパイプがあれば、とつい思ってしまうこともある。相手(官僚)さえその気になれば、私も当事者になっていたかもしれない。
市民権のエンパワーメントを
今回の厚生省の汚職が発覚して以降、官僚の綱紀粛正が叫ばれている。だが、同じ穴の狢の政治家がそれを言うのはあまりに滑稽だ。このままいくら粛正を叫んでも、真面目な人はよけい四角四面に、確信犯はより巧妙になるだけだという気がしてならない。
結局、福祉行政にまつわるこうした現状を変えていくには、市民権のエンパワーメントが不可欠だと思う。いま情報公開が叫ばれているが、個々の介護サービス決定に関しても、どのような基準で誰が判断し決定したのか、その過程と責任の所在を知る権利、および決定に対する異議申し立ての権利をひとり一人の市民に保証させていくことが必要だ。情報公開法の真価は、市民が行政に対して外圧を加えられる手段を持てるかどうかにかかっている。相手が国であろうと、特別養護老人ホームが派遣するホームヘルパーであろうとも、市民ひとり一人が、自分にふりかかる嫌な出来事にNOと言えること。自分はこうしたいと言えること。何故そうなるのかを調べることができること。その積み重ねが福祉を変え、社会を変えていくのだ。
そしてまた、許認可の透明性が確保されて初めて、私も“こんな事を書くヤツの施設の申請は認可しない”などと言われることに怯えなくてもすむようになるのだ。
(12/30/96)
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