1986年 カトレアホームだより掲載

いのちを育むこころ

チェルノブイリ原子力発電所の事故によせて

 
                       高橋 健一
 


 チェルノブイリ原子力発電所の事故は、原子力発電所の「安全神話」をあっけなく倒壊させた。
米国スリーマイル島の原子力発電所の事故の段階で、いつかは起きるだろうと思っていたが、まさかこんなにも大きな規模での汚染が、こんなにも早く現実になるとは思わなかった。
テレビのニュースで西ドイツの農夫が語った言葉が印象的だった。

「何年か前この村にも電気がきた。
みんな、よろこんだ。
だが今は、毎日が不安でしかたがない。
干し草をいじる度に自分の被爆量を気にしなければならないし、子供達のことも心配だ。
ついこのあいだまで、この村に電気はなかった。だから、ランプを使っていた。不便だった。
だが心は、平和だった。」

 人類の歴史において、今日の科学技術の進歩は人類が未だかつて経験しなかったテンポで進んでいる。
しかし、その科学技術を裏打ちする哲学は、それについて行けないでいる。人間の心はそんなに早く変われないのだ。特にそれが「いのち」に関することであるならばよけい難しい。

 「いのち」
人は生まれ、そして死ぬ。
人類が何千年も何万年も前から経験してきた事実である。
日本の民衆は昔から、出産と死の看取りを集落内の家族のもとで行ってきた。
しかしその生まれる時と死ぬ時の場所が、ここ二、三十年の間にすっかり変わってしまった。
「病院」という場所に。
なぜ、場所が変わったのだろうか? 言うまでもなく、病院は安全で万全な処置ができるからである。

 現代社会は科学的に安全であり万全であることが何よりも大切にされ、最高に優先されなければならない価値と説得力を持つ。
それゆえ私たちの家庭の中で家族と共に営まれ、いきづいてきた出産と死は病院の密室の中に閉じ込められることになる。
病院の持つ合理性は疑問を抱くことすらないほどの説得力を持っているために、このこと自体はあまり問題として考えられていない。
しかし、「いのち」の原点とも言える出産と死の看取りの場所が変わり、家庭でなく病院になったと言うことは人が「いのち」ということを思い考えるというようなデリケートな問題に対して、大きな影響を及ぼしてきているのではないかという気がしてならない。

 科学の言う合理性や安全性だけに目を奪われているうちに、私たちは人間としてもっと大切なものを見失って来てしまったのではないだろうか。

 「いのち」をたんに生命個体的にみれば、それは今日の脳死問題にみられるように生理学的な現象として捉えられる。
だが「いのち」をその人の人生または家族や社会の中での関係としての存在と考えたとき、その価値は客観的現象として測定できる世界にはない。

 「ハート・モニターでは、心臓の動きをとらえることは出来ても人間の『こころ』は掴めない。」
京都堀川病院の早川一光氏の言葉は重い。
われわれ老人ホームの現場においても、合理性や安全性が極端に優先されれば、それに比例して老人の活気は失われていく。肉体的に生かすことのみが優先されると「こころ」を殺してしまいかねない。

 「いのち」という抽象的な概念の問題は、原発による事故のように具体的事実を呈することなく社会全般を広くゆっくりと蝕んでいくために、問題として意識化されにくい。
東側の原発だから事故を起こしたのであって、日本では起きないという奇弁を極楽トンボ的に信じていける精神構造自体が、いのちを育むこころがマヒしてきている証拠ではないか。
九州で事故が起きれば、北海道まで汚染される狭い国土の日本において、もはや逃げ場はない。

 まだやり直しがきくのならば、先ずは自分自身の生活からいのちを育む心を、本当の意味での心の平和を取り戻す道を歩みたい。


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