人権の視点から操作主義を問う

老人生活研究93年7月号(268号)掲載
                          高橋健一


<操作主義とは>

 操作主義とは、直接的な命令や指示とは違い、相手の主体的な判断や意志を意図的な方法によって、(職員が)望む方向へ(老人を)誘導しようとしたり、なんらかの工作を行なうことによって相手(老人)を外部から変化させようとする仕方や方法のことを言います。
 例えれば、「馬を早く走らせるために、その鼻先に人参をぶらさげる」ようなことです。
 職員は老人に対して、「〜させる」という言い方をすることがあります。これは単なる言葉の問題ではなく、職員が老人を見下しているときに使う表現であり、操作主義的態度の表れです。(*1)

 私は本誌258号で、監査による個別処遇方針の「全員」策定について問いかけをしました。
 その後、私の所属する神奈川県老人ホーム生活指導員研究会は「個別処遇方針の策定は全員に必要か」というパネルディスカッション(本誌261号掲載)を行いました。その席で私は、個別処遇方針を策定する際の、職員の操作主義的態度を指摘しました。ところが、フロアーからの意見(録音不良のために掲載できなかった)の中に、「何を言っているのか全然わからない」という発言がありました。このとき私は自分の説明不足を感じるとともに、操作主義的態度そのものが、現場ではほとんど認識されていない現実を痛感しました。
 そこで今回は、できるだけ具体的な事例をあげながら、現場で行なわれる操作主義的態度を指摘していきたいと思います。

<行政指導が操作主義を推進している?>

 資料1の「編集室」(老人生活研究誌城戸編集長)には、「『ゼロ作戦』の説明文には、本人にその意志があればと断っているのですが」とあります。
 資料2は、92年5月に神奈川県老人ホーム協会主催の「監査等に関する職員研修会」で配布された研修資料で、厚生省から各都道府県に出された指導監査の留意事項と着眼点の抜粋です。ところが、この資料の中には「本人にその意志があれば」という文言は、見あたりません。
 この研修会は、監査で基準になることをあらかじめ知らせておいて、ホーム職員に自主点検させるのがねらいでしょうから、現場に対する影響力は、かなり大きなものだといえるでしょう。「離床可能な者について三食を食堂で取らせる」というような例示があると、職員は当然“監査でチェックされる”と思います。
 ここから「食堂で取らせる」という“かたち”に老人をはめこもうとする操作主義的態度がうまれてくるのです。
 職員が、“かたち”に捉われてしまうと、それに反する老人の主体的な意志は邪魔に思えてきます。そして、操作の手の平に乗らない老人を問題視しだします。
 たとえば“今朝は何となく寝坊して一人でのんびり軽い朝食を部屋で済ませたい”というような老人の自然な思いは、“悪いこと”として職員の目に映ってしまうのです。(理由は具体的事例の中で述べます)
 本来離床介護とは、ノーマライゼーションの発想からきたものでしょう。そこでは“起こすのが面倒だから老人はベッドの上で食べて下さい”という事をやめて、“(食堂に)行きたい人が、行きたい時に、行けることを保障する”という事のはずでした。
 しかし、現場では「本人の意志」がスッポリ抜け落ちて、「食堂で取らせる」とか「横になることを禁じる」という“かたち”が、老人に押しつけられてしまうのです。
 私は、「戦略」とか「作戦」という厚生省によるネーミングを、積極的な姿勢を表わす一種のユーモアとして理解しようとしてきました。しかし現場では、離床は戦いなのだから命令は絶対であり個人の意志は必要ない、というような笑えない状況が起きているのです。

<具体的実例として>

 “本人の意志”が抜け落ちて、生活を“かたち”にはめ込もうとする操作主義的事例を、本誌261号に掲載された「養護老人ホームにおける痴呆性老人の処遇<3人部屋と個室の比較検討>」(Aさん 福岡・B市立養護老人ホーム「C荘」看護婦)の一部に見ることができます。レポートの最後に近い「まとめと考察」の一部を引用します。(老人生活研究本文には実名で表記していますが、インターネット上では現時点でAさんに反論の機会がないので名称等を伏せさせていただきました)

 「個室化することによりプライバシーの確保が可能になった今、入所者をいかに孤立させず、入所者同士が互いに良い関わりをもち、助け合いながら生活できるように援助するかが、今後の我々職員の課題であろうとおもわれる。もちろん各居室にテレビは設置していない。
○食事は必ず食堂で!
○朝・夕の礼拝には全員出席!
○1日の健康は体操から!
○レクリェーション・クラブ活動へは積極的に参加しよう!

○お酒やお茶は楽しく飲もう!(お酒コーナー、喫茶コーナーの設置)
のかけ声のもと、入所者、職員とも積極的にとり組んでいる。」

 上記引用文の中から、操作主義的態度から生じたと思われる問題点を指摘します。
 「個室化することによりプライバシーの確保が可能になった今」とありますが、プライバシーとはどんなことなのでしょうか。
 プライバシー権の概念構成は、一部ジャーナリズムによる私生活の暴露が問題になりだした、19世紀後半のアメリカではじまりました。
 20世紀に入り、個人の私生活を公表されることへの対抗として、「一人にしておいてほしい権利」が判例で認められ、プライバシーは権利としての市民権を得ました。
 現在ではより積極的に、「他人が自己に関する情報を利用することができる程度を決定する権限を自己が有している」「自己に関する情報の流れをコントロールする権利」と捉える定義が定着し、個人の尊厳にかかわる重要な権利として位置づけられるようになってきました。(*2)
 また、プライバシー権には「自分に関することを自分で決める時の独立性の権利(自己決定権)」を含むという見方もあります。(*3)
 私を含めて特養ホームなどでは、おむつ交換の時にカーテンを引くだけで、プライバシーが守られたと思いこんでいる場合があります。しかし、プライバシーを“見られないこと”程度に捉えていると、個室化イコール“プライバシーの確保の完了”のように思ってしまいがちです。
 個室化は不可欠な問題ですが、それはプライバシー確保の環境的要件のひとつでしかありません。その自覚がないところでは、個室でありながらも下記のような操作主義的行為がなされるのです。

 「もちろん各居室にテレビは設置していない」
 なぜテレビは居室に置けないのでしょうか。
 理由は、“個室内で自由にテレビを見させると、老人は部屋から出てこなくなり孤立する。テレビの個室内設置を制限し、みんなの集まるところに置けば、老人はテレビ見たさに部屋から出てくる。他者との交流を持たせやすく、孤立させないですむ”ということでしょう。馬の鼻先に人参をおいて走らせるのと手法としては同じで、明確な操作といえます。
 そしてまた、なぜ、「もちろん」なのでしょうか?
 このような操作主義的手法は、一部の福祉関係者によって相手を動かす効果的な手法として研究、発表されてきました。操作主義的手法を望ましいノウハウだと信じて疑わず積み重ねてきたのです。Aさんが自信を持って「もちろん」という表現を使ったのは、このような操作主義的手法が奨励されるべきものとして、多くの福祉関係者の共通認識となっているからではないでしょうか。
 また「いかに孤立させず」が目的なのだからという“本人のためになっている”という自信の表明かもしれません。
 しかし“人は正義を振りかざす時ほど、自らを省みれない”という言葉があります。“自分は一生懸命、老人のためになる事を与えようと頑張っているのだから”と思っているとき、職員は自らの姿勢を省みれなくなります。実はここから、老人の自由を制限する規則や指示、“よけいなお世話”や“押しつけ”がうまれてくるのです。
 わたしたち職員が老人の人生に土足で踏み込む行為を無自覚に行なってしまう背景に、この正義の意識があるように思います。

 食事は、なぜ「必ず」食堂で、なのでしょうか。
 先程の行政指導の影響を色濃く感じるとともに、“かたち”にはめこもうとする操作主義的態度だと思います。
 もちろん実際には、体調が思わしくなかったり明確な理由があれば、食堂には行かなくてもよいのだと思います。しかし「必ず」とか「全員」という表現は、「かけ声」というよりは、むしろ指示命令に近いものとして現場では機能します。
 なぜならば「必ず」といわれた場合に老人は、食堂に行かないのは何故なのか“腹が痛い”とか“熱がある”などの正当な理由や合理的根拠を職員に釈明する必要がでてきます。実際には施設職員の“許可”がいるのと同じように作用してしまうのです。
 “今朝は何となく寝坊して一人でのんびり軽い朝食を部屋で済ませたい”というようなことは個人の自由な気持ちです。しかし実際には、“何となく”は理由として認められなくなります。
 職員は、老人を“良い状態にしてあげようと一生懸命”なのですから「必ず」というわけで、それを“何となく”嫌だということは“良い状態でない”イコール“悪いこと”として職員の目に映ってしまいます。
 もし自分が逆の立場だったら・・・、老人の立場だとしたら「必ず」と職員にいわれながらも“何となく”自分一人が部屋で食べたいと申し出るのに、どんなに勇気がいるだろうか想像してみてください。
 「かけ声」という呼びかけを越えて、指示命令に近いというのはこの心理的圧力です。もちろん心理的なものなので、なんでもないという人もいるでしょうけれど。

 「礼拝には全員出席!」
 ここでの礼拝とはどのような事なのでしょうか。この文面からではわかりませんが、「礼拝」と聞くと私はキリスト教の礼拝を想像してしまうのですが。
 しかし、もしそのような宗教的礼拝だとすると、「全員出席」という「かけ声」のもとに積極的にとり組まれる礼拝は、憲法上の人権問題になるのではないでしょうか。
 Aさんの務める施設はB市立です。しかし、たとえ社会福祉法人立だとしても、法的には、老人は“措置”という“行政処分”によってホームに入所しています。また職員は「公権の行使者」(*4)という捉え方からも、礼拝への「全員出席!」の「かけ声」は公権にもとづく行為といえるでしょう。となるとこれは、憲法20条に明記された「信教の自由」に抵触します。
 職場の同僚や上司は「礼拝には全員出席!」について、疑問を持たなかったのでしょうか。  このような憲法に明記されている重大な問題を無自覚に発表する人権感覚は、決して特定な施設や個人の問題だけではないように思います。私自身を含めて、老人ホームの職員の人権感覚が深刻な状況であることを象徴していると思うのです。
 私は、このような状況のなかで作られる個別処遇方針を危惧するのです。
 「全員」とは言いながらも、まだみんなへの「かけ声」ですんでいた操作主義的態度は、個別処遇方針の全員への策定によって、より個人レベルで貫徹されてしまうのです。

 「レクリェーションやクラブ活動へは積極的に参加しよう!」は、指導監査でも行事数やクラブ数、開催回数や参加人数について詳しく報告することになっていて、行政指導の内容に添う呼びかけです。
 何年か前私は、実際の監査で「カトレアホームはクラブ数が少ないですね」と監査官にいわれたことがあります。
 全体的な行事よりも個別な介護に力を入れ、個別な作業援助のための専任の職員を配置したり、地域のボランティアの協力などを得ていろいろ工夫を重ねていることを説明しましたが、職員としては心外なものです。
 監査での評価は、クラブ数と開催数、参加人数で判断されがちです。この行政指導が、現場では「〜のかけ声のもと、入所者、職員とも積極的にとり組んでいる」というようなアピールをうみだします。
 しかし、このようなとり組みも、参加人数という“かたち”に目を奪われると「ゼロ作戦」の弊害と同じように「本人が望むならば」が抜け落ちた無理な参加誘導を招きます。 本来職員は、老人のさまざまなニーズにきめ細かく対応していればよいのであり、クラブ活動に関しては、参加しやすい環境や条件を整えることにこそ力を注ぐべきだと思います。
 「積極的に参加しよう!」という全体でとり組む呼びかけは、操作主義的態度からうまれたものだと思います。職員からの働きかけは、活動をわかりやすく、丁寧に(必要に応じては個別に)案内するまでにとどめるべきだと私は思います。
 また、行政指導が「クラブ活動への参加状況」というような個人の生活の過ごし方(私事)に介入することの問題性については、法的な根拠もふまえて今後もっと論議されるべきだと思います。
 組織間の関係としては、上部機関(厚生省)から下部機関(施設)への指導は社会的に認められていることでしょう。しかし、行政に指導される立場にある施設職員は、実際には職員よりも立場の弱い老人個人に対して、その指導の矛先を向けてしまいがちです。ここに、公権が私事に介入する構図ができあがるのだと思います。

<操作主義的態度は自分の中の問題>

 私は、職員の操作主義的態度を行政指導のせいにしても、問題は解決しないと思っています。
 Aさんのレポートは、プライバシーの尊重と、個室を語るものであっただけに、より明確に操作主義的態度だと思う部分を指摘する必要があると思いました。
 このような操作主義的態度で行なわれる実践を、現場職員が望ましいこととして発表していくことは、ますます現場に操作主義を広めることになります。また、行政指導や行政ご用達のメディアが、操作主義的手法を無自覚なままに奨励している現状を、現場から後押しすることにもなると思います。
 理想も高く、善意であり、熱心でありながら、また専門的教育を受けていても陥ってしまう操作主義的態度は、私を含めて福祉職員が持つ共通の可能性だと思います。
 操作主義的態度は他人事ではありません。私の日常の相談業務の中に意識せずとも湧いてきてしまう態度であり、自身の内的問題なのです。
 私は、完璧に操作的行為をしないで働くことができているわけではありません。また、私の勤めるホームが人権思想に満ち溢れ、老人一人ひとりが常に素晴らしい生活を送っているというわけでもありません。自分の事を棚に上げた指摘をしていると言われればその通りでもあります。
 だからこそ私は、自分の心の中に湧いてくる操作主義的態度を、他のせいにせず、いつも自分の問題として自覚しておきたいのです。

<おわりに>

 学者でない私が、人権や法的なことを述べるのは無謀かとも思いましたが、素人は素人なりに、その時の自分の思いを表わしていけばよいのだと思います。
 次の機会には、操作主義を人権の土俵に乗せて考えるために、“自己決定能力になんらかのハンディがあるとしても自己決定権はある”という立場をもって、“公権に基づいた、私事に対する操作主義的行為は、直接的な指示や命令と同様に個人の主体性を侵害し、自己決定権と私事の自由を制限する人権上の問題になる”という試論を提案したいと思っています。

*1 永和良之助 本誌232号「続・老人ホーム職員の課題」
*2 自治体OI研究会 「自治体窓口のオフィス・イノベーション」59頁
*3 山田卓生 「私事と自己決定」
*4 副田義也 本誌256号 「書簡1」 45頁
*直接の引用は「 」で、私の考えや推測、想定は“ ”で表わしました。


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