老人生活研究92年9月号(258号)掲載
高橋健一
〜ショートショート〜
「町内会の会長が役員達と会議を開き、住民一人一人に記録をつけたり、評価をしたり、方針をたてたりしたらどうでしょうか?」
昨年の第3回関東ブロック老人福祉施設指導員研究会で、小笠原祐次さん(日本女子大教授)がそんな例え話をされました。
私はそれをヒントに、こんなショートショートを考えました。
題して、
「会議録 町内会における住民の個別処遇方針の策定とその見直し」
「では次にいきます。先月引越してきました1丁目2組3班の高橋一家の個別処遇方針ですが、3班担当の班長から報告をお願いします」
「はい。えー、奥さんは働き者なんですが、旦那の方は、毎晩酒ばかり飲んでいて働きが悪いようです。体重もオーバーしています。保健委員さんはカロリー計算もできるそうなんで、専門的な意見を聞きたいんですが」
「そうですね、転居時住民検診では、ご主人の健一さんの体重は標準よりだいぶオーバーしていると評価されます。血液検査の中性脂肪値も高すぎます。酒量を減らすべきですね。1本100円の小さいビールを週2回、火曜と金曜とにしましょう。あと、煙草ですねえ。1日5本にしましょう。朝起きた時と、食後3回そして、消灯前に。そうそう、消灯時間を過ぎても歌を歌ったり、意味のないのに歩き回ったりしていますね。日中充分疲れさせて、それでも消灯時間後におきていたら、眠剤を・・・」
「保健委員さん、そこまで厳しくてはかわいそうですよ。もうちょっと自由にさせてあげましょうよ」
「体育指導員さん、病気になったらあなたが治してくれるんですか。そんなルーズな事では私は責任持てません!。会長さん、どう思われますか!」
「まあまあ、保健委員さんのおっしゃる事は、ごもっともです。その通りなんです。ところがなかなか、ここ町内会は治療の場ではないわけですし、そこまでは時代も時代ですし、強制のようになってしまってはいけないわけで。まあ、徐々に仕向けて行くように・・・と。ところで、家庭指導員さんの担当分野での問題点は?」
「子供は3人ですね。この所得で3人は多すぎないかと・・・?」
「そうですね、無計画ですね。前住んでいた町内会からの転居連絡書によりますと、経済状態の欄に記載された前年度の収入では子供ひとりの養育がやっとですね。また現在の買物費用の調査結果を比較しますと支出の食費が占める割合が高すぎますね。家族計画の指導を保健所の保健婦さんに依頼しましょう」
「奥さんは...、いい人で問題はないです....、は、はい」
「記録がしっかりしていないから、問題が見えてこないのよ。問題は見方によっていくらでも出てきます。しっかり観察してください。外出簿の記録を見ると近所の家への外出が町内平均値よりかなり低いですね。高橋家への訪問者記録は?」
「ああ、家を訪れる面会者も少ないなあ。家に閉じこもりがちなんですよ。ああそうか、家に閉じこもってする事が無い!これが子供が多い原因だ!」
「ちょっと待ってください。個別処遇会議では、憶測で物事をとらえては駄目です。記録と調査と評価が必要です。それが、科学的処遇です。福祉施設に勤務している僕の経験から申し上げますと、家族を十把一からげに捉える視点は禁物です。ひとりの人間個人としてケースを客観的に捉えなければ、かつての画一的処遇の町内会になってしまいますよ。本来は、ケースを個人名で呼ぶべきです」
「いやーあ、お若いのにさすがプロのご意見は素晴らしい。まずは個人の記録をもっときめ細かく取るようにしましょう。また夫婦の夜間の観察も必要ですね」
「その通りです。プライバシーに関することですから、役員の意識を高く持ち外部に漏らさないように。統一された用語でもれなく記録、きめ細かなケース分析。それを活用しての方針策定が必要なんですね」(一同うなずく)
「3男の三郎、幼稚園年長ですが、ザリガニ収集癖は毎日、日が暮れるまでですから、問題行動ランク表の重度にあたります。近隣の田の苗を荒し苦情が出たため精神保険相談医より向精神薬が処方されました」
「近隣の苦情、これは問題だ。方針の見直しが必要ですな」
「会長さん、長男の太郎と次男の次郎については特に問題はないので、特別な方針は立てなくても」
「ああ、本当に問題ないですなあ。いいや、どうあっても全員やらないと。自治省からの指示もあるし、町内会費の補助金という国民の税金を使っているのですよ、指導監査で指摘事項にあげられて、りっ理事会で回答を・・・ああっ時間が足りないなあ。太郎、次郎は監査用の作文でいいから・・・」
町内会ではありえるはずがない事なのに、妙なリアリティーを持っています。
このリアリティーこそ、誇張はしたものの、老人ホームの中では日常の現実として多かれ少なかれ存在している事なのです。
一般社会から見ると奇異な事でも、それが「老人ホーム」というフィルター(めがね)を通して見ると、当然の事のように思えてきてしまう。
ここが、恐いところなのです。
〜危険性その1 操作主義の温床に〜
本誌1990年7月号「続・老人ホーム職員の課題」で永和良之助さん(現在 聖カタリナ女子大学助教授)は、全国社会福祉協議会が出版した「老人の恋愛、性、結婚」を例にあげ批判をしています。
「結婚させたこともある」「自由に交際させている」「内縁関係として和室に同居させた」「恋愛でもたもたさせるより、周囲が考えてよければ結婚させるべきと思う」「今まで5組ほど結婚させたが仲よくやっている」「問題があったので別れさせた」というような、多くの老人ホーム関係者が老人に対してこのような表現をしている事実をあげ「〜させる」という表現の裏に潜む施設職員の姿勢を鋭く批判しています。たんに言葉尻を捉えているのではなく、私たち職員が老人と「平等の人間としてつきあおう」としていない姿勢を指摘しているのです。
また永和さんは老人ホーム職員の無意識のうちの「老人を操作しようとする態度」と「老人を見下している意識」「民主主義に対する認識の脆弱さ」の3点をあげて、男女混浴等の社会常識に反することに対する批判すらも老人ホームの内部からあがらない体質を見いだしています。
「老人を操作しようとする態度」とは操作主義といい、直接的な命令や指示とは違い「個々人の主体的な判断や意志を、意図的な方法によって自分(たち)が望む方向へ人間を誘導しようとしたり、なんらかの工作を行なうことによって人間を外部から変化させようとする仕方や方法」のことです。
施設職員が上記のような体質を持つ中で、全員に対する処遇方針の策定や目標、計画等が決められる事は「操作主義」を生み出す温床になる危険が大きいと私は思うのです。
操作主義的姿勢から策定された個別処遇方針ほど危険なものはありません。
また、職員同士の関係も「平等な人間として」話し合えているでしょうか。処遇会議等での議事の進め方はどうでしょうか。職員同士が、わかりあおうとする話し合いではなく、専門性を振りかざしたり、権威にかたよって方針が決められたりはしていないでしょうか。
医療的専門性も、「平等な人間」という姿勢がないと、本文冒頭のショートショートの保健委員のセリフのような治療管理的方針を招きます。
それは決して他人事ではありません。善意や情熱や使命感とは別の問題で、私自身が持つ可能性なのです。だからこそ、この可能性を忘れずに自分のなかの小さな危険な芽を摘み取り続けていく必要があるのです。
私は、ホームがカラーを持つ事自体を否定しているのではありません。信仰の理念に基づいて設立されたホームもありますし、独自の展望を持つホーム、歴史ある伝統を重んじるホームもあるでしょう。個人に個性があるように、それぞれのホームにも個性があって当然です。ホームが、ホームで行なわれる援助の基本的な原則指針を立てる事も、国が憲法を持つように大切な事でしょう。
しかし、そのホーム独自の価値基準が、無意識のうちの「老人を見下している意識」によって老人個人の日常の生活に押し付けられたり、操作主義によって仕向けられたりすることが問題なのです。
〜危険性その2 公権の私事に対する制約になる〜
副田義也さん(筑波大学教授)は、岩波書店「シリーズ 変貌する家族(6)家族に侵入する社会」の中で、次のように述べています。
「老人ホームで働く第一線の職員たちが、公権の行使者であるという自己認識は、老人福祉事業の民主主義的運営、すなわち、そこで利用者や家族のプライヴァシイと自由が最大限に保障される運営のために貴重なものである。その自己認識を欠くとき、彼らの行動は、いかに彼らの善意や専門性によったものであろうと、クライエントの私事と自己決定を制約する管理的側面をとめどなく拡大してゆくことになる。一般的にいって、戦後日本の社会福祉研究においては、この自己認識の理論化がまったくおこなわれてこなかった。そこでは現在にいたるまで、ソーシャル・ワーカーは専門職業人であるべきだという規範理論のみがもっぱらさかんで、彼らが公権の行使者であるという認識は成立していない。それはなぜかという学史的研究は他の機会にゆずるが、主要な準拠理論であるアメリカ社会事業理論が民間社会事業の経験から出発しているところに根本的原因のひとつがあろう」 私たちは、社会福祉の公的な施設の職員であり、公権を行使できる立場にあります。
私は次のように考えます。私たち福祉職員が策定する個別処遇方針は、公権の行使によるものです。
私自身、自分の仕事が公権の行使であるという認識はありませんでした。これは私だけの事ではなく、副田さんが指摘するように「自己認識の理論化がまったくおこなわれてこなかった」わけですし「(私たちが)公権の行使者であるという認識は成立していない」のが現状なのです。
自己認識を欠くこの現状の中で、老人ホーム入所者「全員」に、公権を行使して策定される個別処遇方針はどんなものになるのでしょうか。
その自己認識を欠いている私たちの行動は、いかに私たちの善意や専門性によったものであろうと、ホーム入所老人の私事と自己決定を制約する管理的側面をとめどなく拡大していく、と言い換えることができるでしょう。
先進資本主義社会における民主主義は、公権が個人の日常の生活のレベル(自己決定と私事の自由)に介入する事に慎重な配慮をしてきました。
「福祉は人だ」とか「行政は制度ではなく人間だ」とかよく言われます。
どんなに専門的な研鑽を積んだとしても判断する人によって、個性があり、良く作用する時だけではなく偏りや間違いが起こり得るのです。だからこそ、公権は私事の自由に介入することを避け、個人に対する間接的な制度運営に関する事でさえ個人情報の公開や救済(意義申し立てや審査)の機会を不断に改善し続けているわけです。
それでも、どうしても全員に方針を立てるべきだというなら、まずは本人が自由に選択できる条件を整えて、「わたしの処遇の方針、計画、目標をホームの職員によって決めてください」という委託をしてもらうべきではないでしょうか。
指導監査では、預金や年金の管理について、本人から「金銭管理の委任依頼書」をとる事を熱心に指導してきました。これは、当然の事ですし、健全で望ましい事だと私は思います。そのうえでホームに金銭管理を任せる必要のない人は、自分自身で管理したり、親族にそれを託したりしているわけです。
金に関する事には厳格なのに、こと人格観念に対してはあまりに鈍感です。
また、そのようにして依頼された個別処遇方針は「公権の行使」によって策定された以上、それがどんな内容で、どのように検討されたのかを本人は当然知るべきです。また、その方針に不服や間違いがあれば本人がそれを訂正できる機会が必要です。
しかし、その点についても、ほとんど配慮されていません。
老人ホームに入所する人は別だというならば、それは明らかに差別です。
〜危険性その3 時代に逆行するのでは〜
老人ホームは医療の場でも、訓練の場でも、教育の場でもありません。生活の場だと言い続けられてもまだ個人の生活そのものに職員による方針と計画、目標をつくりたがる事は「私たち福祉職員の人格観念に対する病理が、いかに深刻か」(永和良之助さん)という事だと私は思います。
反対に医療の現場では、個人の尊厳についての建設的な論議が時間をかけて積み重ねられてきています。インフォームドコンセントの考え方もその一つです。「素人に説明しても理解できないから、患者は治療の内容や薬の効用に質問などするな」「黙って医者のいうことをきけ」「入院した以上は、ここのやり方に従え」というような「治してやる」という姿勢からの脱却がはかられているのです。
個人を治療の対象として捉えるのではなく、個人の生活の延長線上に治療があるという自然な事の再確認です。
病気の内容を素人にもわかるように説明し、可能な治療法を説明し、患者の選択の上で治療方針を持ち、患者とともに治療を進めようという姿勢を医療現場は再確認しようとしているのです。
個別処遇方針の策定を、老人本人は欲しているのでしょうか?
方針の内容を本人が納得し、本人が選択したのでしょうか?
ホームに在住する老人ならば誰でも「全員」をホーム職員が記録し評価し目標をたてるという個別処遇方針の押し付けは、治療の必要ない人までを医師が勝手に患者と決めつけ、患者に無断で検査をし治療方針を立て処置や投薬をしようとするような、時代に逆行する行為ではないでしょうか。
〜なぜ指導監査は「全員に」と言うのか〜
ホームに入所する人全員に、自己決定能力が無いという事はありません。禁治産を宣告されている人も、私の勤めるホームにはいません。それでいて国は、なぜ全員に対する方針や目標を策定させようとするのでしょうか。
もともと処遇とは、個々のニードに対応した個別的なものなのです。ところが、従来からの十把一からげの画一的な介護が反省され、あえて個別処遇と呼ぶようになりました。 国がその点に着眼したのは素晴らしいことです。私たち現場の職員もそのことは高く評価すべきでしょう。
しかし、その素晴らしい個別的処遇の実現を指導監査を通じて書類の上で日本全国の施設に広めようとした所から間違いが始まったのではないでしょうか。
国は、「老人福祉施設等の指導監査について」を各都道府県(市)に対して出していますが、その(1)の(ウ)には、「入所者処遇を確保するため、プライバシーの確保、給食、入浴、健康管理、リハビリテーション等処遇全般にわたり施設自らその向上を図るよう指導を徹底する必要がある。
そのためには、入所者個々の心身の状況、生活動作能力等を勘案し、必要に応じて嘱託医の意見を求めるなど専門的判断も踏まえた個別処遇方針を策定し、これに沿って適切な処遇が行なわれるよう指導の徹底を図ること。」とあります。
下線を引いた「そのためには」は、個別処遇方針の策定が、個別処遇の実現のための手段として使われる事を示しています。
また、ここには「老人ホーム入所者全員」に対しての方針策定が明記されていませんが、「指導の徹底をはかること」がそれにあたるのか、実際の県の指導監査では、必要に応じて何人かの老人に援助方針を立てるにとどめていたカトレアホームは「全員」に方針を立てていない事を理由に書面による指摘を受けました。
指導監査はその性質上、事務的に書類の上でチェックする方法で指導する事になります。そこで編み出されたのが、ケース記録、各種評価測定記録、そして方針、計画、目標といった文書類として残せる記録を利用した指導方法だったのではないでしょうか。
お金の流れについての監査は、各種の帳簿類と領収書で帳尻があう事によって監査できます。しかし、人間の生活についてまで書類で監査しようという発想には無理があるのです。
人間の生活に出納帳(ケース記録)や貸借対照表(個別処遇方針、処遇評価会議録など)を当てはめ、どれだけの損益(リハビリ効果、ADL評価、知能評価スケールなど)が出たかを監査しようという手法です。
また実際に、指導する側の立場の方からこんな必要論を聞いた事があります。
「施設には各施設ごとに処遇レベルの格差があり、なんにもしない施設は本当になんにもしないのです。そういうレベルの低い施設は、全員に対して計画をたてさせないとちゃんと個別処遇をやらないのです」
このような考え方からいくと、どんな施設でも個別の方針が文書としてあれば、老人を個別に見ている事になりますし、個別に処遇を工夫し始めるだろうというわけです。「全員に」という事を強く指導する理由は、ここにあるわけです。
「記録無き所に仕事なし」とよく言いますが、金銭管理や職員自らの作業記録ならばともかく、老人個人の日常生活に関する事柄の記録には、さまざまな問題があります。
実際の指導監査では、ケース記録、ADL評価表、知能評価スケール等の測定も「全員」に定期的に行なう事を奨励しています。しかし、特に知能評価スケールについての「全員」に対する測定は、重大な問題をはらんでいると思います。その問題点は別の機会に譲るとして、管理、チェックしようとする側にとっては「記録なければ、管理できず」なわけで、管理上不便なわけです。管理するのに便利だから個人の記録をとらせるというのは危険な行為です。
「働きなくとも作文あり」、たとえ、監査用の作文が多くても、いままで画一的に見ていた職員に個別方針を立てさせる事によって、すこしでも老人を個人として見るようになるという意見があるかも知れません。しかし、老人を個人として捉える事のできないような職員(他人事だと思っていません自分の持つ可能性です)や、曰く『なんにもしないレベルの低い施設』が策定する方針は、操作主義と、公権による個人の管理をとめどなく拡大していく危険なものなのです。
〜では、どうするか〜
槻谷和夫さん(ことぶき園園長)は、本誌92年6月号「小規模多機能型老人ホームを実践して」と題して「定員10人〜20人のいつでも利用できる老人ホーム」の必要性を説いています。
「(小規模施設の特徴のひとつに)ケア内容について、本人の自己決定を尊重できるという点がある。それは少人数であるが故に、十分目がゆき届くという条件によって支えられていると言える」と述べ、その具体例として「職員の休憩所から、もの音一つですぐにとんでいけるようになっている。そのためもあって、持参品は原則としてなんでも可」その他にも、酒・煙草・出前・起床・就寝・面会時間・外出等の自由をあげています。
重要なポイントとして、ここでの自由は、管理的な制限そのものが必要のない自由だということです。
許可して与えている自由ではないということです。前述の「(老人男女を)自由に交際させている」という自由とは根本的に違うのです。
槻谷さんのレポートからは、ほのぼのと暖かい雰囲気がただよい、老人と職員が平等な人間としてつきあっている姿勢が伝わってきます。声高に個別処遇方針などと叫ばなくても、自然に個人が尊重されている事がわかります。
個別処遇方針の策定がもたらす「生活」は、このような「自然な、ありのままの個人の生活」にはならず、個別という名のもとに記録や測定で評価された「管理された作為的な個人の生活」になるのではないでしょうか。
個別処遇は、老人一人一人の日常生活の基本的なニーズに職員が充分に応えていく事が基本です。しかしそこで大切なのは、個人の「生き方」については、職員の価値基準でその善し悪しを判断しないという事でしょう。
判断しないという事は、放っておく事ではないですし、無視するという事でもありません。
個人の選択、生き方が尊重され、私事の自由と、あらゆる分野の活動に参加する機会が保障されるという事です。
この人は、こういう生き方をしたいのだなと、ありのままにわかる事なのです。
そのうえで、職員が援助できる事とできない事があるのは当然です。
また「Aさんは骨粗鬆症なので車椅子に移動介助する場合は必ず複数の職員で行う」というような介助上の個別な注意事項は当然必要です。しかし個人に対する「注意事項」と「方針」とは全く違うものです。
ここで、誤解がないように詳しく説明しますが、大規模な施設(50人でも大規模だと思います)で、今の人員でチームとして援助している以上、職員の側からみて援助の困難な老人に対しては充分な話し合いが持たれる事が必要になります。ケース会議は必要ですし、個別の援助方針も、全員にではなく、必要に応じては立てる事になるでしょう。
しかしその場合でも、老人を問題視するのではなく、老人を調べるのでもなく、職員の側の課題と問題点を掘り下げるという事が肝心です。
自分達はどのような援助をしていくのか、自らをふりかえり、自らを「まな板」にのせた会議であるべきなのです。
また、そのような姿勢であれば、処遇困難な事例研究なども大切だと思います。
私は個別処遇方針の全てが操作主義になると思っているのではありません。必要に応じて検討する行為は職員側の課題が原因ですから、方針は援助方法に関わる事の必要最小限にとどめるべきだと思うのです。
だからと言って、即その事は十把一からげの画一的援助につながるというわけではありません。
老人と個々に接していくという事は、個別処遇方針を策定し、定期的に見直しをしなければ実現できない事ではありません。
あたまから、入所老人を何かしてやらなければならない対象者と捉え、本人の依頼もないのに、本人にかわって全員に方針を立て、計画を立て、目標を決め、記録し、評価し、定期的な見直しをしていく事が、すぐれた福祉だと思い込むのは間違いなのです。
国は、個別処遇を本気で推進したいのならば、小手先の指導監査でつけ焼刃をしようなどとせず福祉士等の職員養成の段階から援助における個人を尊重する学育を重視すべきです。
そして現在施設に働く職員には、職員の自主的な研究などを援助し、職員自らが人格観念をふりかえったり援助の姿勢を見直したりという、自己研鑽ができる場所や時間や機会を用意するなどの環境づくりにこそ力を注ぐべきなのです。
〜むすびに〜
この問題について、何人かの福祉関係者に相談してきましたが、個々に疑問は感じてはいるものの、実際には「指導監査にたてつくよりも、方針策定の必要がない人の分は監査用の作文を用意すれば波風立たないんだから」という趣旨の意見を多く聞きました。
しかし私は個別処遇という大事な事に関しては、自分の気持ちを裏切ってまで方針を監査用に作る事がいやだったので、この投稿を書く事にしました。
人格観念は、一人一人の個人の自覚が支えていくもので、放っておくと、どんどん知らぬ間に侵されてしまうものです。
国の指導に迎合し、だれもが「さわらぬ神に、たたりなし」と、監査用の作文を用意し続けていれば、国は間違いにいつまでも気づかないでしょう。
私は、人権を振りかざして権利を主張したいのではありません。
人権理論は、自由が侵されるときに必要になってくるものです。
個人の自由をないがしろにし、平等な立場に立てず相手を支配しようとする者がいてはじめて、対抗手段としての機能を発揮するのです。
私は、ふだんからこのような論理的発想で仕事をしているわけではありません。むしろできるだけ自然に、目の前の人とありのままに出会っていきたいと思っているだけなのです。専門的な知識や技法そして理論はもちろん大事ですが、それは単なる道具にすぎないと思っています。道具が揃えば、必ずしも素晴らしいモノが創れるとは限りません。道具を使いこなせずに振り回されて、かえって大切なモノを見失うことさえあるです。
冒頭のショートショートは、このような投稿には少々奇抜すぎるかとは思いましたが、私たちの行なっている援助の危険な一面を論理的に説明するだけでなく、自然な日常生活の感覚で感じとれる方法はないかと考え思いきって載せてみました。
自然で和やかな人間の生活は、本当はもっと素直でシンプルな言葉で語る事ができるのではないか・・・。そんな夢を抱いてペンをおきます。