ぼくが高齢者福祉の問題を、人権の視点から観るようになった背景には、こんな家庭環境があります。
  いつもいつも「人権!人権!」なんて叫んでいませんが、やっぱり大切。
 「非国民」であり「異端者」であった母方の親族の話です。
 かなり重い話ですが、高橋自身はいたって軽い人間です(体重は重いけど。また高橋はいかなる信仰にも政党にも属しておりません・念のため)


僕が人権に無関心でいられないわけ

1993.11

高橋健一   


 僕の母方の祖父は、戦争に反対の立場をとるキリスト者でした。
祖父は、1939年の治安維持法第二次一斉検挙で伝道中に逮捕され、1945年9月に釈放されるまで6年間投獄されていました。

 しかし、釈放の約2ヶ月後に、看病の甲斐もなく祖父は死亡してしまいます。
長期にわたる投獄生活と、転向を拒否したために受けていた激しい拷問により身体が衰弱しきっていたのです。
「敗戦後に獄中で死ぬと責任問題になる」と悟った当時の警察は、GHQの命令の前にすぐに釈放したようです。「獄死」と言っても過言ではないでしょう。

 僕の母方の伯母は語ります。
「釈放されて家に帰ってきたときね、お父さんは私たち子供に 『こんどは、いいお父さんになるからね』って言ってくれたの」と声を震わせます。

 「なにしろ私が学生の頃、父親はずっと刑務所にいたわけだから・・・。
今なら何にも恥じることはないってわかるけれど、当時は民主主義なんて何も知識がなかったから・・・。
お父さんが亡くなったあと、お父さんの投獄の話しは、『恥』だって思っていて家族みんなで避けていてね、最近になってからだよ、こんな話しするのは」

 伯母は、つらい事をあえて思いだしたくもないし、連れ合いにいらぬ誤解をされたくもないために長年黙ってきたのでした。

 「釈放されてすぐにね、どこからか政府に賠償金の請求ができるようだって聞いたけれど、お父さんはね、『日本も好きで戦争をしたのではないだろう』って請求する必要はないって言うの。
『戦争というもののために、こんなことになったのだから。ぜんぶ戦争がいけないんだ』って言っていた」
「なにしろ、お母さん(僕の祖母)も長女も逮捕されたし。父さんは一人で伝道中だったから家にはいなかったのだけれど・・・、伝道先で逮捕されたのよね。」

 「私たちは仙台に住んでたの。朝早くね四時頃だった。雨戸をドンドンドンって、声は出さなかったね。土足でね、そう、みんな土足だった。警察の人たちが入ってきた。
タンスの引き出しを開けて手紙を全部持っていくの。私は小学校の五年生だったよね。」
「東京で亡くなった姉さんから、私あての大切な手紙があってね。
『これは姉さんからのだから・・・!』って、持っていかないでって頼んだのだけど、刑事に突き飛ばされた。身体がポーンと宙に飛んだのおぼえてる。信仰のことなんか何も書いてなかったんだよ。持っていかれたの、姉さんからの手紙。悲しかった」

 僕の母も語ります。
「私は小さかったから、あまり覚えていないの。でもね、小学校にあがると先生は、父が刑務所にいるというので私に厳しかった。手首の内側に氷を乗せて立たされて、気絶したことがある。先生がそうだから、同級生にもいじめられた」

 「小学校低学年の足だから、片道2時間ぐらいかかったかなあ・・・一人で宮城刑務所に行ったの。高い塀だった。
この塀の向こうにお父さんがいるんだって、思うだけで父に会えたような気になれるのよ。
また2時間歩いて家に帰ると、もう夜もふけていて家族のみんなが心配しているの。どこに行ってたのって聞かれても、私は家族に決して言わなかった。黙って自分だけの秘密にしていた。一人で、何度も何度も行ったのよ」

 僕は、祖父のことを書きとめておきたいと思い、あらためて聴く機会を持ちました。そこではじめて、母は嗚咽しながらこの事を語りました。50年ものあいだ一人で、心の奥にしまっていたのですね。

 祖父の所属していたキリスト教のその会派は、アメリカに本部を持っていました。戦後まもなく本部は、この戦争は侵略に対抗する為の正しい戦争だったと総括したといいます。しかし祖父たちは聖書にもとづき「戦争に正しい戦争はない」と反論しました。教団本部は祖父らを破門し、現在も異端者としていると聞きます。

 孤立無援で残された祖母と母達姉妹は、信仰から離れました。
当時の日本は、戦争に反対するものを非国民と呼び、法律に基づいて、公務員の手によって力ずくで個人の信条を変えさせようとしました。
人権は、世の正義よりも優先される人間の尊厳だと思います。また、戦争は、人権を根底から踏みにじる行為です。

 いまの日本にあっても、「人権」を口にする人を「正義の味方」と茶化したり、イデオロギー的なレッテルを貼って片付けてしまう風潮があります。
しかし僕は、だれが何と思おうとかまいません。
僕の心の中で、人権という言葉が大切な響きを持って存在しているのだからしかたないのです。もしかすると祖父の「血」なのかもしれません。
釈放後2ヵ月あまりで亡くなった祖父の思いは、僕のなかに生きている・・・最近そんな気がします。

 法は人を生かしも殺しもする。そんなわけで僕は、目の前の人権に、無関心ではいられないのです。


私は、いかなる理由があろうとも、 
破壊活動防止法に基づく      
解散指定処分の発動に反対します。 

(1996.12.22)


 いま破壊活動防止法は、オウム真理教を取り締まる目的で適用されようとしています。
 しかし破壊活動防止法は、ひとたび発動すれば、それは日本の未来をオウム化していく法律です。
 皮肉なパラドックスなのです。

 この夏(96年)亡くなった丸山眞男氏は、日本人は常に「他者」を認めない思想の古層を持ってきたと語っています。「『他者』を認めない」とは、異なる信条、価値観を認めないということでしょう。
 破壊活動防止法の「他者」を認めず人の心と思想を力ずくで変えようとする精神は、オウムがたどってきた過ちとまったく同じではないでしょうか。 日本人はこのことを戦前の治安維持法下で充分体験してきたはずです。
 破壊活動防止法の適用を推進しようとする人達は、自己に内包するオウム性を自己覚知して欲しいと思います。

 無法な団体を野放しにせよと言うのではありません。いかなる団体であろうとも違法行為は現行法で毅然と取り締まるべきです。
 しかし法務大臣の一連の言動をみていると、オウムに対して現行法を充分に適用してこなかった反省のないままに、いきなり破壊活動防止法を持ち出すという感情的で短絡的な発言に終始しています。とうてい成熟した民主国家の大臣の意見とは思えません。

 会うことのできなかった祖父。優しかった祖母、母や伯母達の苦しみを繰り返したくありません。
 この悲しみを、子ども達に味あわせたくありません。
 私的な親族の体験からではありますが、一市民として、一個人として、破壊活動防止法に基づく解散指定処分の発動に強く反対いたします。

(参考) 日本弁護士連合会・鬼追明夫会長談話

(参考) 東京万華鏡・オピニオン「筋が通らぬ破防法適用」
    中村敦夫(俳優、ジャーナリスト)


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