自己決定の視点から操作主義を問う

老人生活研究94年11月号(284号)掲載
                          高橋健一


1.はじめに

 老人ホーム職員、とりわけ特養(特別養護老人ホーム)の職員から、「高齢者は判断能力が劣るのだから、高齢者の日常生活の様々な内容は職員が決めてあげなければならない」という意見をよく聞きます。
 実際には、「歩かせる」「歌を歌わせる」「作業をさせる」「残さず食べさせる」「自由にさせる」・・・というような「操作的姿勢」(*1)で、日常生活の様々なプログラムが立てられていくことが多いように思います。
 プログラムは、職員が高齢者の日常生活を記録し、職員がスケールをとり、職員が評価し、目標や計画等の方針をたてて実施されるべきだと奨励されています。そこでは「本人の意思を尊重して」とは言われていますが、現場では、高齢者本人の意思、自己決定権はどう保障されているのでしょうか。

 2.「権利」なんて言わないで、すめばいいのだけれど

 私は、権利を振りかざした自己主張に、違和感をもっています。また、権利というようなものは、あたたかい人間関係が破綻したときに使われるように思えて、日常生活の中ではあまり使うべきではないような・・・そんな抵抗感を持っています。
 しかし、本紙267号<「職員パラダイス」からの転換>で西口守さんは、「日本人は法で強制されるより『お互いに察しあう』ことの方が大切だと思っている人が多いが、それは強いものの論理だと思う」と述べています。
 たしかに「察しあう関係」とは、人と人とが、ある程度「平等」「対等」の立場にいることができてはじめて成立する関係なのだと思います。
 現在の老人ホームの、利用者と職員との関係は、被措置者としての法的位置付けや、要介護者の場合は身体的にも、「対等」とは言えない関係にあります。福祉の現場は、このような条件だからこそ、あえて「権利」を明確にしていく必要があるのだと思うのです。

 3.老人ホーム職員の人権意識3つのパターン

 「福祉イコール人権」などとも言われ、福祉関係者の研究会や大会等では、「人権」がテーマとして掲げられることが多いようです。
 私の限られた経験からだけですが、老人ホーム関係者が人権をテーマとして扱う場合の姿勢を、以下の3つのパターンからみてみました。

A <研究大会のテーマは「人権」を掲げているにもかかわらず、意見発表者の発表内容は、事例発表や実践報告の域を出ず、「このような取り組みや援助技法を用いることが権利を守ってあげることになるのです」と結ぶパターン>
 実践報告は、何を語っても結論としては人権と結びつけることが可能ともいえます。たとえば、看護業務のマニュアル本策定の実践報告をして、「このようなマニュアル本を作ることが、結果的には高齢者の人権を守ることにつながるのです」と結べば、「人権に関する意見発表」となってしまいます。
 どうも比較的規模の大きな研究大会等でよくあるパターンのようです。これは発表者の選定が、大会開催要綱の慣例として県ごとに定員がふり分けられるために、特に人権に関する問題意識を持っていなくても各県で発表者を指定しなければならないところに問題があるのではないでしょうか。人権的視点を煮詰めきれないままにスケジュルーをこなすかたちで発表当日を迎える事になり、このような状況が作られているように思います。

B <制度のもつ欠陥や施設の立地条件や設備、「4人雑居性を個室化せよ」「職員の配置を増やせ」などハードの部分での不備を指摘し人権的問題として捉えるパターン>

C <職員の介護の質が問われるものとして、職員による暴行や虐待、介護の意図的な手抜きや暴言などの精神的圧力、財産管理、その他援助内容の問題点を人権侵害として捉えるパターン>

 BとCは、加害者に対する糾弾闘争的パターンとも言えます。
 まずBのようなハード面を取り上げるときの議論の展開は、「人権問題のすべては予算等に起因するハード面が原因であり、それが解決されない限り人権について何を語っても何も変わらない。」というような主張が出てきます。
 特に施設職員が人権問題をテーマに論議をすると、何がどう変わるのかが明確にされないままに、このパターンに向かうことが多いようです。「今の人員では何もできない!」などと、ともかく悪者を探しだし、それを糾弾するパターンで、結論として「このような状況があるかぎり、我々がいくら頑張っても理想は実現できない」と結んでしまう論法です。
 このパターンに職員が向かいやすい理由は、全ての人権侵害の責任を制度の欠陥や金を出さない行政に押しつけることによって、行政やそれを認める国民の意識を「加害者」としてしまうことができるからではないでしょうか。なぜならばその時職員は、高齢者とともに一生懸命改善しようとしているのにできないという「被害者」の立場を取ることができ、自分は批判されない安全圏にいることができるからです。
 もちろん、糾弾闘争を含めて福祉行政の立ち遅れを指摘する姿勢はとても大切な事です。また職員は、高齢者の代弁者としての役割を担う立場もあります。ところが加害者探しの理論展開からは、Cのような職員自身の問題までもが、人員不足のためだとか条件が悪いからだとかを理由に、自らを問うことをうやむやにしてしまう側面があります。施設職員がBを主張するときには、この点に特に注意すべきだと思います。
 Cは、主に利用者側から問題提起され、職員側からは内部告発として出てきているのでしょう。
 ところがこれは、主に高齢者福祉関係者以外の障害者福祉関係者から提起されるもので、高齢者福祉関係者からは、ほとんど問題として表に出てきていません。これは、けっして高齢者施設が障害者施設よりも優秀であるということではありません。むしろ高齢者施設では問題の実態が出てきにくい構造があることを示していると捉えるべきでしょう。この点にこそ問題の本質があります。要因のひとつと思われる意識を、次の項「4.老いては子に従え・・・」で考えてみます。
 Cについても社会的には大切な意味はありますが、Bと同様に「加害者・被害者論」を糾弾闘争的にやっていくと、人権侵害は、私たち人間ひとり一人が持っている可能性であり、当事者としての自分自身の内的問題でもあるという一面が見えなくなることがあります。
 そこで私は、「人権」を糾弾闘争的に捉えるだけではなく、自身の問題、職員である私の内的問題として捉える視点をもっと掘り下げたいと思いました。私たち職員が持つ操作的な姿勢を、「自己決定」という人権的視点を切り口として捉えてみたいと思うのです。

4.「老いては子に従え」って、女性に対する教えだった?

 「ある程度の年令になったら、後輩に道を譲る」という人生哲学を否定する気はありませんが、それとは違った意味で、高齢者の意見を封じるときに用いる「老いては子に従え」について、以前から気になっていました。 あらためて辞書を開いてみて意外なことに気づきました。
 「女人の体、幼き時は則ち父母に従い、少き時は則ち夫に従い、老いては子に従え」(大智度論・九九)
 元来は仏教の教えで、「三従」と同義とあります。
 三従とは、「婦人に三従の義あり(略)、故に未だ嫁せざれば父に従い、既に嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」(*2)というわけで、元来は、女性に対する教えだったというのです。
 現在では、さまざまな社会運動の成果もあって女性の権利が明確にされ、男性は少なくとも公然とは、「三従」を口にしにくくなりました。
 ここであらためて、現代における「老いては子に従え」の位置付けを考えてみると、女性軽視、女性差別が、時代とともに高齢者軽視、高齢者差別に、形を変えていった経過がうかがえます。
 軽視、差別の標的が、高齢者に向けられてきた。それが現代ではないかと思うのです。
 もしも、私たちホーム職員が、利用者に対して「老いては子に従えですよ」と言うのだとしたら、または思うのだとしたら、それは「女は男の言うことを素直にきいてればいいんだ」「女に責任ある仕事は任せられない」「女はだまってお茶くみをしていればいいんだ」と言ってはばからない男性と、同次元に立っているということを自覚するべきです。
 しかし実際には、「老いては」の感覚は社会的に深く浸透し、前項のCのように、老人ホームの現場で人権問題が話題になりにくい背景を作っているのだと思うのです。
 たとえば、私たち現場職員なら承知している、また新聞などでも取り上げられている一部老人医療の劣悪な人権無視の実態があります。しかし、人権の擁護を崇高な使命としている日本弁護士連合会の報告書「問われる日本の人権」(*3)をみても、障害、労働、子供や女性等々国内のさまざまな人権的課題が網羅されているにもかかわらず、高齢者の人権問題は項目にすら取り上げられていません。
 高齢者は、人権的課題として意識される事すらないほどに、弱い立場にいるとも言えるでしょう。だからこそ「人権」が救済の中心に据えられるべきだと思うのです。
 今後は、高齢者自身による権利宣言や、こどもの権利条約のような国際的に高齢者の権利を保障する取り組みも必要になってくると思います。

5.自己決定権をモノサシにしてみたら

 「自己決定能力になんらかのハンディがあるとしても自己決定権はある」という立場をもって、「公権に基づいた、私事に対する操作主義的行為は、直接的な指示や命令と同様に個人の主体性を侵害し、自己決定権と私事の自由を制限する人権上の問題になる」
 これが本誌268号の最後に私が提案した考え方でした。
 この頃私が出会った本に、「知的障害をもつ人の自己決定を支える」(*4)があります。この本で取り上げている「知的障害」は、医学的には高齢者の痴呆症とは区別されますが、痴呆症を「高齢期知的障害」とみれば、その自己決定を捉える姿勢としては充分参考になると思いますので、抜粋して資料として引用します。(*4 現在のところインターネット上での、「知的障害をもつ人の自己決定を支える スウェーデン・ノーマリゼイションのあゆみ」大揚社・柴田洋弥/尾添和子 の掲載許可を得ていませんので割愛させていただきます)
 資料1(*4誌の87ページ以下)は、スウェーデンの社会庁が、知的障害を持つ人本人と、その関係者に対して発行、配布したパンフレットです。
 ここでは、あなた(知的障害者)の自由と権利として、「もしあなたが、自分の言いたいことがうまく言えないときは、あなたのしたいことを、ほかのひとたちがわかろうとしなけれななりません。」「あなたにわかるように、ほかのひとたちは、やさしいことばで話さなくてはなりません。」とあります。自己決定能力がないから無理だと切り捨てるのではなく、職員は本人の意思を理解をすることと、本人にわかりやすく説明する義務があると明記しています。
 「理解することと、わかりやすく説明すること」とは、口で言うのは簡単ですが、実際に職員が行なうとなると、非常に手間のかかることです。「自己決定能力に何らかの問題がある場合は」とか「自己決定が難しい場合は」などと条件を付けて、第三者が決めてしまっていいことにすれば、職員は手間が省け、こんなに楽なことはありません。
 資料2(4誌の158ページ以下)は、「私たちはグループホームに住んでいます」という、知的障害を持つ人の学習会用の教材です。
 これをみても、私たちが当たり前として行なっている連絡調整やケース会議の在り方も、問題をはらんでいるということが見えてきます。
 私がかねてから提起している個別処遇方針の全員策定問題についても、本来なら、まずは策定する必要が有るか否を、本人に確認すべきところからはじめるべき事柄ではないでしょうか。すくなくとも、国が、老人ホームで暮らす高齢者全員に策定せよと命じるべきものではないことだけは、人権的視点からはっきりと見えてきます。
 「特養入所者は、とりわけ重特は自己決定能力がないのだから、個別処遇方針は職員が決めてやらなくてはならない」などと論議していることが、いかに自己決定の基本理念を無視した、外国の援護技法や概念の都合のいい部分だけを導入する「いいとこどり」であるのか・・・これを次号に論じてみたいと思います。

(*1)操作主義とは、直接的な命令や指示とは違い、相手の主体的な判断や意志を意図的な方法によって、(職員が)望む方向へ(老人を)誘導しようとしたり、なんらかの工作を行なうことによって相手(老人)を外部から変化させようとする仕方や方法のことを言います。例えれば、「馬を早く走らせるために、その鼻先に人参をぶらさげる」ようなことです。(本誌232号「続・老人ホーム職員の課題」永和良之助)

(*2)「故事ことわざ辞典」国際情報社・石原明太郎

  (*3)市民的及び政治的権利に関する国際規約第40条1(d)に基づく日本政府の第3回定期報告を自主的に批判的に補完する意味で日本弁護士連合会が作成しているカウンターレポート・「問われる日本の人権」こうち書房・日本弁護士連合会

(*4)「知的障害をもつ人の自己決定を支える スウェーデン・ノーマリゼイションのあゆみ」大揚社・柴田洋弥/尾添和子

 


老人生活研究 94年12月号(285号)掲載

 

6.サービス評価基準の基本理念と日本人の「いいとこどり」の姿勢について

 日本の高齢者福祉の現場において、「自己決定」がどのように捉えらられているかを明確に語るものとして、元全老施協会長の岩田克夫さんは次のように述べています。
 「先進国では、既に自己決定ということは言われていたんですね。が、果たして日本人は、自己決定というような教育を受けてきたことがあるだろうか。また、自己決定というと、施設に入るときからの自己決定だが、現在の措置制度においてその選択権が果たしてあるだろうか。その点で、自己決定が果たしてあるかという問題が一つ出てきたのと、それから痴呆のお年寄りに、果たして自己決定能力があるのかということを申しました。その結果、答えは、施設の玄関に入ってから以後の自己決定であり、そして痴呆老人の場合は、自己決定が難しい場合はいわゆる家族なり、あるいはそれにかわる者が決定するという考えが出されたのです。(以下略)」(「老施協」第242号座談会「特別養護老人ホーム・老人保健施設のサービス評価基準をどう受けとめていくか」)
 ここでは、自己決定の現状認識として、「自己決定は施設入所後に存在する」また、「痴呆老人の場合は自己決定能力によって、家族なり、あるいはそれにかわる者が決定する。」という捉え方が明確にされています。
 作家の堺屋太一さんは、日本文化の特徴として、日本人の「いいとこどり」の慣習を指摘しています。(*5)
 日本土着の神道、八百万神の概念には、「神の言葉と掟」がなく、絶対的な価値観がないために他の価値観との共存が可能でした。
 仏教伝来にいたっても、聖徳太子によって「神道を幹とし仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて現実的繁栄を達成する」といった、本来宗教の持つ掟からは整合性が得られるはずがない「神仏儒習合思想」が普及できた背景として、「神の言葉と掟」がないことがあげられます。この思想的土壌は、外来文化を受け入れるときに、日本人から文化を体系的に考える発想を失わせてしまいます。すべての文化の都合のよい部分だけを取り入れる習慣が身についてしまうのです。
 「先進国では、既に自己決定ということは言われていた」ために日本にも自己決定権を導入せざるをえないわけですが、認める範囲を「入所後」と限定したり、「自己決定能力があるのか」「自己決定が難しい場合は」というような、どのようにでも解釈できる条件で、自己決定権の及ぶ範囲を現実に合わせて都合よく限定してしまいます。ここで「都合よく」というのは、適正に調整するということではありません。強い立場の側の論理に合わせてしまうことを意味します。これは冒頭に引用した「(人権を嫌うのは)強いものの論理だ」という西口守さんの指摘とも共通の背景をもつでしょう。
 もちろんサービス評価基準は、措置制度の問題性にまで言及するものではないのでしょうが、高齢者福祉サービス実施の現場で自己決定を打ち出したわけですから、必然的に措置制度は自己決定を保障できない制度として浮き彫りになってきます。基本理念として「自己決定」を据えた以上は、措置入所と自己決定権の問題について、疑問を投げ掛ける姿勢が求められて当然だと思うのです。
 また、97年実施に向けて準備がすすめられているという公的介護保険制度は、保険証一枚で利用者が主体的にサービスを受けられる、まさに「自己決定」を保障する制度となる可能性を持っています。サービス評価基準は、そこで提供されるサービスの内容を老人保険施設とともに統一整備していく布石となるでしょう。それだけに、サービス評価基準の基本理念に据えられた「自己決定」の概念をあやふやにしておくことはできません。
 ところが、「家族なり、あるいはそれにかわる者(実際には職員になるでしょう)が決定する」という考え方のように、現実として都合が悪い部分は本人の自己決定権を剥奪してしまう点をみると、自己決定権を人権概念としての整合性をもって導入しようとしているとは到底思えません。
 都合のよい部分だけを取り入れる「いいとこどり」の慣習は、都合の悪いところは切り捨てて、目をつぶってしまうことを意味します。思想概念の進歩発展にあわせて実態を変えていくのではなく、現実にあわせて解釈を変えてしまうわけで、思想の体系的整合性など考える必要がないのです。
 個別処遇方針の全員への策定や、ここのところ言われているケア計画のすすめにしても、主にアメリカのケースワーク理論から展開しアメリカの民間社会事業、ナーシングホーム等で実践が積み重ねられてきた技法です。 日本の福祉学者は、アメリカ産のこれらの技法を広く現場に紹介してきました。また、このような特定の技法を現場で使用することを、厚生省が監査を通じて強く行政指導するという、国を挙げての取り組みがおこなわれています。それではなぜ高齢者福祉に関わる学者は、諸外国における高齢者の「権利擁護の制度システム」に関することについては、ほとんどと言ってよいほど紹介してこなかったのでしょうか。
 アメリカでは、援助を受けるか否かの最初の時点から、本人の意思をその都度確認し、施設入所の決定にいたっては充分な説明と合意を得る手続きがあると聞きます。(*6)ひとつひとつ具体的な援助の内容を定義付けし、本人の意思の確認を求め、施設運営者と本人が対等な立場にたてるような枠組みを作り常に改善し続けています。
 日本では、自己決定を黙殺して入所させた後に、施設側に都合のよい部分だけを「いいとこどり」し、入所者を施設の生活に「適応」させるための技法ばかりが現場に導入される・・・という側面が見えてきます。
 「日本人は、昔も今も、(外国の)概念が導入されれば、細部を改良し、規格化して大量生産するのが得意なのだ。文化を『いいとこどり』にして、集団主義的細部重視で勤勉に行なうからである。」(*5)
 官僚主導体制を支えるエリート官僚など規格型の均質教育の優等生は、新しい概念を創造することができず、外国の概念を「いいとこどり」することによって、日本の発展をなし遂げたと堺屋さんは言います。これと同じことを福祉の世界に行なおうというのならば、私がかねてから問題提起している個別処遇方針の全員策定指導は、たしかに、「集団主義的細部重視で勤勉」に「いいとこどりで発展をなし遂げる」ための効果的な技法といえるでしょう。
 「本人の意思を尊重して策定せよ」とされる個別処遇方針の入所者全員策定指導であっても、自己決定が難しい場合は、家族かそれにかわる者(実際には職員主導になるでしょう)が決めていいのですから、限られた職員の体制で「全員に策定せよ」といわれれば、本人の意思をいちいち確認しないままに、「それにかわる者(職員)」が決めてしまうわけです。
 そこでは、離床、歩行、身辺自立、積極的なクラブ参加等々の職員からみて「善い」とされる目的に向けて、入所者個々を記録し評価し、欠けている部分を強化しようとする治療的視点からの個別処遇方針が「規格化した大量生産」のように策定されていくことになります。
 反対に、欧米で整合性をもって行なわれている人権擁護のシステムは、「いいとこどりで発展をなし遂げる」といった性質のものではないために、日本の現場への導入は難しいでしょう。人権擁護のシステムは、人権概念自体が「細部を改良し、規格化して大量生産する」ことの、しにくい概念だからです。現場においても「問題行動」の解決に直接結びつかず、目に見える「善い効果」や「善い成果」を求める人には支持されません。それどころか、利用者による権利主張を「問題行動」や「不適応」のひとつとして捉える傾向すらあるのではないでしょうか。
 自己決定能力が健常な人へは、「老いては子に従え」と自己決定を押さえつける。自己決定能力にハンディがある人には、「いいとこどり」で自己決定権を都合にあわせて限定し、自己決定を剥奪する。
 高齢者の自己決定は、二重三重に軽視される実態があるといえるでしょう。

7.人権を創るということ

 生活とリハビリ研究所の三好春樹さんは著書の中で、人権という言葉は、Human Rightsを無理やり日本語にしたもので、西洋的個人の土壌は日本にないのだから権利意識を無理やり植えつけることはできない。土壌に合わないものは立ち枯れるだけだ。と指摘しています。(*7)
 私も、そのままシステムだけを導入するのは、無理があることに同感です。また、日本独自の概念の創造が求められていると思います。そしてまた私は、こんなふうにも思います。
 たしかに他国の思想は、前提とする社会的歴史的背景が異なるわけですから、欧米の思想が日本にそのまま根付かないのは当然です。また、「欧米」とか「西洋的個人」と一言にいっても、欧州だけをとっても、国民性や民族性がそれぞれに違い、公的援助の捉え方も、国や地域によって様々に違っています。同じ欧州のなかでも人権概念を創出したフランスは王の首をはねましたが、立憲君主制の国もあります。ましてや、アメリカと北欧にいたっては、人間を捉える視点そのものにもかなりの違いがあるようです。違って当然なのです。だからこそ「人権」が求めている理想は、その国の現実に根ざした独自の思想概念を創造するときに、人間の尊厳、大切にするべきものの捉え方などに、新たな視点を提供してくれるのです。
 私は、世界のさまざまな思想や概念も、それがその国の言葉に翻訳を試みられた瞬間から、その国の中のひとつの概念になったと考えています。もちろん紹介された概念に共感するか否かは、私たちひとり一人の選択です。なじむ人なじまない人がいて当然です。
 福祉的技法だけでなく、生活の様々な分野にわたり、「いいとこどり」ではありながらも欧米からの影響を色濃く受けた社会システムを構築することを選択してきた日本社会において、人権思想だけをただ「外国のものだから」と排除してしまうのは妙な話です。「西洋的思想概念は日本の土壌に合わないから、日本にもってきても立ち枯れる」という昔から言い尽された台詞をもって、ただ単に欧米の人権概念を切り捨ててしまう意見は、もはや通用しないでしょう。
 声高に日本人の国民性だけを強調しても、鎖国でもしないかぎり、様々な概念、視点は世界中から紹介されてきます。現代は、世界的に影響を受けたり与えたりしながら地球規模で概念の発展がなされる時代ではないでしょうか。ソビエト崩壊後の世界をみても、人間を国や民族などの舛で捉える視点はもはや通用しなくなり、「世界」対「個」が問われている時代がきていると感じています。だからこそ私達は、日本の文化を背景とする、日本人が独特に持つ思考パターンの認識を必要とし、その固有な土壌のなかで、「個」としての自分自身を知ることが求められていると思うのです。

8.おわりに

 本紙258号、261号、268号と、操作主義について意見を述べてきました。今回は、私を含めた施設職員が持つ操作主義的姿勢をより明確に自己覚知するために、自己決定権をモノサシにしてみました。
 私が、操作主義を意識した最初のきっかけは、個別処遇方針の策定を監査で指導されたときでした。「全員に」と言われても、「目的を自分で決めないかぎり、操作的にならざるをえない」という直感が発端だったと記憶しています。
 操作主義は、私たち現場職員の自己覚知にかかっています。
 人権というモノサシを自分自身に向ければ、自己覚知の道標に使うことができます。
 人権とは、「ひとり一人が自分のものとして持っている侵してはならないこと」「おたがいに大切にしあうもの」なのだと思います。もっとふだんの暮らしに活かしていって、日本独自の人権擁護システムを私たちの現場から創り出せたらうれしいと思うのです。
 また今後は、自己決定権に基づいた私事の自由と、公権に基づいた操作主義的行為について、現場の具体的事例をもとに考えていけたらと思っています。

(*5)「日本とはなにか」講談社・堺屋太一

(*6)翻訳されているものとして児童のグループホームの例ではあるが、カルフォルニア州社会福祉省厚生福祉局発行の「グループホームの目標と運営の手引き」(大揚社・大川信夫/訳)では、受け入れ手続きや、個別の対策計画の策定手順と計画の修正、移動または退所の手続きなど、細部にわたり定義付けがなされ、「児童とその指定代理人の承諾を証左する署名」を求めて「運営者は児童とその指定代理人が対策の計画の作成に参加する機会を保障」している。また、それらの記録や資料は、「本人の指定代理人には閲覧自由となる体制にあること」が明記されている。そのうえで「不服申し立ての手続き」の内容を明確にし、「(運営者は不服申し立てのための)規定を施設内の児童、指定代理人の見易い場所に掲示すること」とし、利用者が「報復の恐れなしに」異議申し立てができる体制を確保するよう施設責任者に義務付けている。また、ここでいう「指定代理人」についても法的に厳密な定義付けがなされている。

(*7)「専門バカにつける薬」筒井書房・三好春樹


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