生活の質とは?本当の豊かさとは? 1992、11、30提出 神奈川県精神薄弱者愛護協会(当時の名称)
         機関誌「のびろ」28号掲載原稿

 

生活の質とは?

  本当の豊かさとは?

    
生活相談員(当時) 高橋健一




 家には、創りだす営みが無い。
 与えられたものを選ぶだけの消費の場になってしまった・・・。
 休みの日に自宅にいて、ふとそんなふうに思えて、虚しさを感じたことがあります。

 老人ホームという、人が年をとってから住み慣れた家を離れてあらためて暮らし始める施設に勤めていると、家庭とは?人生とは?などとあれこれ考えることが多くなります。同じ福祉に携わる皆さんも、きっとそうでしょうが・・・。

 私の職場は「特別養護老人ホーム」といい、脳卒中後遺症の片マヒや痴呆症などで著しい知身の障害を持ち家庭では介護できない、おおむね60才以上の人が利用できる「入所」するところです。
 福祉事務所の「措置」なので費用は所得に応じて支払うため、お金のあるなしは原則として入居条件にはなりません。
 老人ホームはその他に、養護、軽費、有料という種類があり、それぞれ所得や日常生活動作によって入居条件や申し込み窓口が違います。詳しくは他の機会に譲るとして、老人ホームの共通な特徴は、施設が「生活の場」と位置付けられているところにあります。

 そんなわけで、否が応でもふだんから「生活とは?」と自分の中で問いながら働くことになります。
 そこで最近特に気になるのは、私たちは、人間が本来持っていた「生活を創りだす営み」をつぎつぎと手放してきてしまったのではないか・・・ということです。
 人間の誕生や看取りは病院へ。
 子供たちの成長は学校や塾へ。
 生産や創造は職場へ。
 食物もどこから来たのか皆目見当がつきません。
 人間の生活の原点とも言えるこれらの事柄を、私たちは家庭や自分の住む地域から切り離し、専門の施設や専門家の手に委ねてきました。その方が能率的で安全確実だという合理的な説得力があるからです。能率や効果で物事を測るというモノサシでの選択です。

 お金の枠組みを司るモノサシもまた、「合理的で能率的」な経済成長が要求される世界です。消費の場の家庭には、全てにお金の裏付けが必要です。健康やレジャー、教育も産業と呼ばれ、趣味や生きがいまで、お金で買われ消費されるものになってきました。
 創造の喜びや、やすらぎ、心の豊かさまでもが、お金の枠組みのなかに組み込まれてきているのです。

 一方で、原点を喪失した家庭や地域は、豊かさの名のもとにQOL、生活の質の向上を求め始めました。しかし実際には、人間本来の暮らしとはなにか?ということに目は届かず、たんに商品化された豊かさの具現化として「便利さと快適さと清潔さ」を追い求める方向へと向かっているように思えてなりません。
 そしてこの裏側には「便利、快適、清潔」に反するものを不要で邪魔なものと見て、切り捨てていくという一面性があります。たとえば老人ホームで、施設内の快適と清潔が全面に出されると、私物の持ち込み制限につながります。別に不潔が好きというわけではありませんが、生活とは無駄やある種の雑然さがあるものです。

 家庭や地域では「便利、快適、清潔」に反する存在は、「ゴミ」として目の前から切り離すことになります。かくして、このモノサシに反するものは、家庭や地域から排除され、能率的な経済性にできるだけ支障がないように、地域が不快不潔にならないようにと、目の届かない所へ処分されます。
 たとえ、それが人間であっても・・・。

 私自身の生活そのものが、能率や能力というモノサシで障害を規定し、その人を障害者と命名し、地域や家庭から排除する枠組みを支えているともいえるわけです。
 自らの生活を問わないで、障害を障害たらしめているこのモノサシを使い、同じ土俵の中で、またもや専門的な効率的な福祉論を合理性を盾に押しつけたり、障害差別の現象面だけにめくじらを立て相手のみを批判することが繰り返されることに、私は疑問を感じます。
 行き詰まっているのは、私たちの生き方、暮らし、そのものなのです。

 また、老人ホームの中の個人の主体的な生活を人権的観点からみてみると、私事の自由と自己決定の問題、特に痴呆症の老人の自己決定と自己決定能力についての問題に、私は興味をひかれます。
 しかし、私を含めて実際の老人福祉の現場では、自己決定とその自己決定能力(知的判断能力)について、ほとんど議論されないままに、職員側の一方的な処遇が展開されているのが現状です。
 老人ホームは「生活の場」ですから、ホームは本人の自己決定による生活を保障するだけでいいという単純な所のはずなのですが、実際にはホーム職員による善悪良否の判断を、様々な規則や援助技法を用いて老人に押しつけている現実があります。

 畳の上で、家族に囲まれて冥途にいきたいと願うお年寄りの思いを大切にして最期まで家で看取った家族が、死後集まった親戚達に「なぜ、入院させなかった」と非難されたという話を聞いたことがあります。
 家庭よりも、専門的で万全な病院の能力を信頼するという意見は合理的説得力があります。しかし実際には、機械に囲まれた病院で様々な検査がなされ、身体じゅうにチューブを挿入され「スパゲティー」と呼ばれるような肉体的な延命処置がはかられてから死に至ることも珍しくありません。

 これが本当の幸福なのでしょうか。似たような事はホームでもおきますし、ホーム入居自体がそれにあたるともいえます。
 能力主義的合理性イコール幸福とはいいきれないのです。むしろ逆の方が目立ちます。
 もちろん本人が病院で死にたいと望む人もいます。しかしここで問題にしたいのは、特に入居型の施設ではスタッフによって能力主義的合理性への誘導が行なわれてしまうという点です。

 その背景として私は、老人は不完全なものであり、健常な職員が望ましい生活を与えてやらなければならないと思ってしまっている職員の姿勢があるように思います。これもまた能力のモノサシで、相手を不完全と決めつけているわけです。
 相手を不完全な存在とみて、何かを与えなければならない、相手を引き上げてやらなければならないという発想からは、健常というモデルへの誘導や指導、指示や命令、仕向けるといった操作主義が生じてきます。専門職の病理とでもいうか、そのことが援助や教育だと信じて疑わない人も多いように感じます。

 ここで必要なのは、たとえ専門的な合理的判断であっても、本人の合意や納得のないところで行なわれている援助は、その人の自己決定権に援助者が踏み込んでいる、援助者はその人の領域を侵しているという自覚です。
 合理的だから正当性があると思い込んでしまうと、「あなたのためにするのだから感謝しなさい」という姿勢になってしまうからです。

 対等な立場で老人と出会うことをむずかしくしているのも、反射的に能力で上下関係をつくってしまう私たちの、競争社会と偏差値教育によって培われた生き方に返ってきます。
 豊かさの意味をもう一度ふり返り、目の前の人と人との関係と、私たちの暮らし方そのものの変革が必要なのではないでしょうか。
 福祉の現場には、その答えが秘められているような気がするのです。


 高橋個人のHPへもどる