老人生活研究No.292(財団法人・老人生活研究所)1995年7月号掲載分
高齢期知的障害者の自己決定をどう保障するか 〈上〉
高橋健一
東京「老人に関する本を読む会」からいただいた「痴呆性老人の自己決定をどう保障するのか?」に応えるかたちで、自己決定について、より具体的に考えていきたいと思います。
本誌1992年9月号(258号)「監査による個別処遇方針策定の指導を問う」で私は、自己決定と私事の自由の確立されていない現状の特別養護老人ホームの中で、指導監査による個別処遇方針全員策定指導のもつ危険性を指摘しました。賛否両論に支えられながら何回か本誌に意見を表してきましたが、今回はこのような質問をいただき自分自身の考えをより一層深める機会になり嬉しく思います。
振り返れば、私の自分自身が持つ福祉の常識に、疑問を抱くきっかけとなった体験のひとつとして、91年10月の神奈川県福祉職員欧州視察があります。
「カトレアホームだより」に、その頃の思いを2回に分けて載せていたのですが、今回のテーマの原点になると思えるので、その一部を転載します。
2.「西方見聞録 〜自己決定と個人の尊厳〜」(カトレアホームだより より)
《むかし見た週刊誌のグラビアに、麻薬を公然と利用できる公園の写真が載っていた。
口を開き白目をむいて、路上に仰向けに寝ている恍惚の若い女性。
麻薬の使い過ぎなのか、心停止した男性に心臓マッサージを施すレスキューチーム。
記事のタイトルは「人間やめますか」だったと記憶しているのだけれど、それが、いま自分が訪れているここスイス、チューリッヒの公園だったとは思いもよらなかった。
スイスに公民権を持つという通訳の日本人女性の話によると、この公園では麻薬が公の「管理」のもと、公然と使用されているという。
法で麻薬を禁止しても、地下に潜り、かえって犯罪の温床になる。それよりも、麻薬を使用したい人には一定のルール(公園内でと言う事か?)で公然化することを選択したのだという。
出所の不確かな品質の悪い麻薬は身体に悪いので(?!)純度の高い良質の麻薬を国が斡旋しているという。
薬の使い方のミスなどで病人が出た時のために、公園には救急チームや医師が待機しているという。
もちろん、薬物中毒からの解放のために、希望する人は入院もでき、社会復帰のための専任のカウンセラーも、きめ細かく相談活動をしているという。
しかし、薬物使用は、あくまで個人の自己決定。自由意志で選択される。
「ああ、これが、個人主義か」
僕は、公園の真向いのレストランで昼食をとっていた。
これは、映画のワンシーンではない。僕自身の昼食という日常性の延長線上に横たわっている現実の世界なのだ。
車道を隔てた公園の入り口では、若い3人の男女が、水のみ場の石台の上に小量の粉末を盛り、ストローで鼻に吸い込んでいた。
国連に加盟せず永世中立国の立場をとり続け、だからこそ国連の本部を持つ国、スイス。
国情の安定性から世界の保険と金融の中心に位置し、ブラックマネーマーケットの暗躍の場も提供している、したたかな国スイス。 国民は保守的で、かつ厳格な個人主義を貫いていた。
個人主義に裏打ちされた民主主義は、つまるところ個人の自己決定の尊厳にかかっている。
事実を事実として認め、公然と対応策を選択するスイス国民。
どこかの市議会のように「寝た子をおこすな」「古傷にさわるな」いつまでも臭いものに蓋をし、個人主義と利己主義を混同して批判しいては、日本は、ますます国際社会から孤立してしまうだろう。
さてここで、ホームの生活援助の問題で、触れておきたい事がある。
この問題も福祉行政の、個人の尊厳への理解の希薄さから生じていると思えるからだ。
国は、特別養護老人ホームが、在住老人「全員」に対して、「個別処遇目標と処遇計画の立案と、その定期的な評価見直し」を実施するように指導している。
しかし僕は、このことは公権の個人の生活への干渉にあたり、人権的見地からも間違いだと考えている。
県の監査官の方には、ご苦労をおかけしたが、「たとえ国からの指導であっても人権上間違った指導には、執行する個人のレベルで従わない」と申し上げた。施設長も、僕の考えを支持して下さっている。
個別処遇は、集団処遇への反省に立ち、個人の違いを大切にしていきたいと言う当り前の願いから提唱されたはずだ。しかし本人からの依頼もないのに、老人ホームに入所した人なら、どんな人でも「全員」を対象にやれというのだ。またもや同じパターンで十把一からげの押し付けが、指導されているのではないか。
もちろん必要性を感じて実施している施設の方もおられるのだろうし、そういう方の意見も傾聴し自分の考えを深めていきたい。
今年は、僕の属している神奈川県老人ホーム生活指導員研究会や、その他、機会があれば老人福祉の専門誌などでも取り上げていただき、自分自身のテーマにしていきたい。(後略)》(*1)
欧州へは、わずか14日間の視察でしたが、最終訪問国デンマークでは、訪れたコペンハーゲンの施設(*2)で、「利用者個人の日常生活を記録するようなケース記録は設けていない」という事実に出会います。
アルツハイマー等の高齢期知的障害と車椅子を使用する人が多く、定員は75名でしたが、フロアのコーナーごとに入所者も職員も少人数のグループ(居室は個室)にわかれて生活介護がなされている施設でした。
案内をしてくれた看護婦資格をもつという責任者は、「職員が利用者の日常生活を事細かに記録するような行為はプライバシーの侵害だ。職員は自分たちがどんな作業をしたかを記録すればよいのであり、利用者個人ごとの観察記録は必要ない」というのです。
もちろん、欧州の考え方がそのまま日本に当てはまらないことは、前回「7.人権を創るということ」(本誌94年12月285号9ページ)で述べました。
しかし、自分自身の姿勢を知る(自己覚知)には、他者との関係という鏡が必要だと言われます。自分自身が当たり前と信じ込んでいる日本人としての常識をあらためて意識するには、欧州におけるこれらの出来事は、私にとって映しごたえのある鏡になりました。
3.〔専門性のモノサシと個人の生活〕
高齢期知的障害者の自己決定を考える前に、知的障害をもたない自己決定能力の健常な高齢者に対して、現場に働く職員がどのような姿勢で向かっているかを具体的事例をもとに明らかにする必要があります。
4.〔くらべてみれば・・・家と施設〕
「老人に関する本を読む会」の提示した(2)喫煙制限、について、ここでより具体的に考えてみます。
5.〔介護と看護が対立するとき〕
病院への入院は「病気を治す」のが目的です。しかし現代は、慢性疾患や老化など「治らない病気」が台頭し、「治らない病気を抱えながらもより人間らしく生きれる環境を整えること」が求められています。
(*1)カトレアホームだより92年5月号より転載
神奈川県茅ケ崎市下寺尾1835−2
高橋のホームページに戻ります
東京「老人に関する本を読む会」では、「わたしたちのホームでの、判断能力があり自己決定が可能であるが職員の干渉が行なわれている処遇例」として、(1)カロリー制限、(2)喫煙制限、(3)偏食防止の介助について、強制に近い介護を自問するかたちで提示しています。
これらの事例は、栄養学的なモノサシ(尺度)を含めて医療的な専門性と強い関連をもっています。また、介護を医療と切り離して考えることはできないということの例えでもあります。
このことについて象徴的な話を、以前ある老人ホームの嘱託医から聞いたことがあります。
「特養に入る人は、若い頃から不規則な生活を送り、保健感覚が欠如した食生活や習慣を持っていた。だから、その結果として現在脳血管障害や、心臓病、糖尿病などの病気になったのだ。
その病気で体が不自由になり、生活の自立が困難となり、特養に入ることになったのだ。
これは、自分が行なってきた行為の当然の結果であり、障害の責任は本人にある。
不健康な生活習慣の結果この状態になったのであり、この人は、自らの力で健康的な生活を営むことができない証明でもある。
つまり健康的な生活を営む自立能力がない人には、職員が健康的な生活を与えてやらねばならない。
特養入居者は、計算された給食を摂取し、計算されて支給されるおやつの外は、菓子や嗜好品の購入は許されるべきでない。生活も、起床就寝等の時間の厳守、怠惰な生活に陥らないように生きがいを与えながら運動や訓練などを計画的に施してやらねばならない。」という意見です。
実際にこのホームでは嘱託医の言うとおり、本人はもとより家族による食物の持ち込みも一切禁止されていました。
ここまではいかないまでも、病院的管理色の強いホームでは、入院生活と似通った生活管理が強制されているのが現実のようです。
しかし、「障害の原因は本人の自己責任であり、健康管理能力が欠如していたから障害者になった。」という意見には、では先天的な障害や、事故で障害をもったりした人はどうなるのか答えることはできません。
「こういう人が多いから、『平等』に制限する。」というような意見も耳にしますが、それは「平等」ではなく十把一からげです。 また「保健感覚が欠如している」という決めつけと、だから「職員が決めてよい」という論理は、今回のメインテーマにも関連する自己決定権上の重大な問題を含んでいます。
この嘱託医は、もちろん善意から述べているのですが、これこそ「保護主義」の典型と言える意見でしょう。「保護主義」へ批判からノーマライゼーションの思想が生まれてきたわけですから、日本の老人ホームの現状をみていくには絶好の事例とも言えます。その他この意見は「パターナリズム」や、「優性思想」への批判的立場からもみていくことができるように思えます。機会があれば取り上げていきたい課題です。
病気によっては、医師は患者に禁煙を命じます。
一般的な内科系病院に入院している患者ならば、通常「治療の場」である病院に入院すると、入院中は病院の規則に従い禁煙せざるをえないでしょう。
しかし、ひとたび病院を退院して「生活の場」である家に帰った後は、その指示は当然のこととして本人の自由意志に委ねられます。
在宅患者に対する医師や看護職員の役割は、患者に対し最善と思われる生活習慣を情報としてわかりやすく伝え、あくまで本人の自己決定を促すまでにとどまります。(*3)
ところが、本来生活の場であるはずの老人ームでは、主治医である嘱託医が禁煙の指示を出すと、その指示に従いホームの看護職員ならびに介護職員がその入居者に対し禁煙の徹底を図ります。
煙草を「預かる」という名目で没収し、友人などから一服もらったりしているところを見かけると注意され、煙草をあげた友人にも二度とあげないように強い指導がなされます。
しかたなく居室や職員の目の届かないところに隠れて喫煙していた、などという事実が発覚すると・・・、もうこれは「防火上の大問題」とされ、ホーム退所を含むような厳重な注意がなされます。
治療が終了したら退院することを想定していない老人ホームでは、医師が禁煙の指示を解かないかぎり、職員による監視がホーム退所まで・・・実際には死亡するまで・・・続くことを意味します。
また、「隠れて喫煙する」ことについては、たしかに防火上の大きな問題です。しかし入居者が隠れて喫煙せざるをえない状況をつくっているのは、他ならぬ職員なのです。じつは、「問題行動」と呼ばれるものの中に、このような「入居者がそうせざるをえない状況に職員が追いやっている」ことが結構沢山あるのではないでしょうか。
本人の意思を力ずくで押さえこめば歪みは必ず他の所にあらわれます。「問題行動」は私たち職員自身の介護上の問題だと言われるゆえんはそこにあります。
ここで私は、喫煙を推進しているわけではありません。私個人も煙草をやめて8年ほどたちます。
しかし、それを他者に押しつける気にならないだけです。私自身、煙草のおいしさや、やすらぎの雰囲気を知っています。また健康面では吸わないにこしたことはない事も知っています。そのうえで私が煙草を飲まないのは、たんに今現在の自分の選択です。明日、吸うことを選択するかも知れませんし、先のことは自分でもわかりません。
お酒は充分飲むことを選択しています。時に必要量の選択を誤り、翌日、心底後悔のひとときを過ごすこともあります。
しかし、それも私の人生です。
最近の特別養護老人ホームは、老人保健施設とならんで通過施設としての位置付けが強調されてきています。ところが、それと平行して、特養は「生活の場」であるという意見が、トーンダウンしてきたように思えてなりません。
事情にもよりますが利用者の立場にたてば、半年ごとに転々とさせられるのではなく、まさに「ホーム」として安住できる施設としての特別養護老人ホームの存在は大きなものがあると思います。
これからは、「治らない病気を抱えながらも、より人間らしく生きれる環境を整える」という21世紀的課題を具現する場として、地域介護とともに特養の存在意義はますます深まると思います。しかしそれは「生活の場」の理念を極めていくことを抜きにしてはありえないでしょう。
本誌1994年8、9月号に掲載された「介護と看護が対立するとき」のシンポジウム(*4)は、複数の現場職員が経験し悩んできた下記のような実例がきっかけになり企画がスタートしました。打ち合せ不足で問題の本質まで話を展開できませんでしたが(司会の私の責任だと反省しています)今回のテーマに関連しますので、この機会に補足を含めて触れておきたいと思います。いくつかの実例をまとめたかたちで紹介します。
病院経験の長い看護職員が老人ホームに着任するとホームにおける看護職員の役割をめぐって混乱が生じることがあるというのです。「看護職員は治療のために病人の生活を管理するのは当然だ」という「病院的観念」がその看護職員にしみこんでいる場合です。「治療の場」である病院と、「生活の場」である特養ホームとは違うのだ、という根本姿勢を理解してもらうのにひと苦労するというのです。
具体的には「煙草を吸いすぎる」とか「お菓子をしょっちゅう食べていて食事をよく残す」「ビールを飲みすぎる」などが問題になるのですが、アンダーラインのように、度を超えているかどうかの感じ方は、観察者の主観的側面が強く影響します。それを「病院的観念」で観察すれば、この判断はおのずと「大問題」になってしまいます。
ふつう老人ホームの現場では、管理医への報告は主に看護職員がします。実際には、報告の仕方ひとつで医師の判断や指示に大きな影響を与えます。月に数回来診する管理医は、常勤している看護職員の報告を大切な情報源として診察を行い、医師としての指示を出していきます。
たとえば、「本来は禁煙させるべきだ」という考えの看護職員が、医師に「煙草を吸いすぎる」と報告したとします。
医師は「まあ、ご飯のあとの一服で・・・日に3本くらいはいいじゃないか」というような指示を出したとします。
煙草は寮母室に預けさせられ、そこには看護職員の書いた「Aさんのタバコ1日3本毎食後。先生より」などというメモが貼り付けれれます。
ところが実際に夜勤や早朝介護にあたる寮母職が、「朝起きたときや夜眠れないときなどに『煙草が欲しい』という本人からの要求があるので1日5〜6本でもいいのではないか」というような、生活実態にそった問い合わせを看護職員に申し出たとします。
指示変更の問い合わせ窓口は看護職員ですが、「本来は禁煙させるべきだ」という考えの持ち主ですから、医師への指示変更の連絡は自ずと消極的になります。
こうしていったん出された1日3本の医師の指示は現場に徹底されていくことになるのです。
それではみんなで考えていこうと処遇会議に提案すると、医療の専門家以外の人(寮母職等)が医療的判断にを異議を唱えていると見做されてしまうというのです。
医療的判断は、直接「いのち」を左右することにつながっていますから、「では、病状が悪くなったらあなたが責任を取るんですね」などと言われてしまうというのです。これではもう話し合いの余地なしといった状態です。
そのうえ病状の変化と健康管理の因果関係は、実際にはかなり不明確な場合が多いですから、たまたま症状に変化があったりすると「脳梗塞の発作だそうですよ。煙草を吸わせていたからねえ」などと言われてしまい、病変は悲しいし、こんな論法で責められては専門外の職員にとっては何とも反論できない、というのです。
ずいぶん下世話な話になってしまいましたが、老人ホームの現場では、実際にはこのようなやりとりで処遇方針が押し通されたりすることが現実として存在しているのです。これも個別処遇方針全員策定の危険性のひとつです。
しかしながらこのようなことは、施設の恥として表には出てきません。「和の精神で介護と看護の対立などありえない。」というような、優等生的な答えしか返ってこないのです。
もちろん施設によっても違うでしょうが、福祉の現場ではスタッフの意見はまだまだ平等ではないようです。医療の意見は、実際にはかなり強い影響力を持っています。
ところで、「1日に3本毎食後」というような指示の医学的根拠は、はたして本当に科学的なのでしょうか。どの医師が診断しても1日3本を許可するというような性質のものなのでしょうか。
これは俗に言う匙加減で、医師による指示判断は現場の報告によってかなり左右される種類の問題でしょう。しかし実際の生活介護には、このような種類の医療的判断が密接に入り組んで存在しているのです。
ただし看護職の名誉のために、このような意見の出所は看護職に限ったことではなく、生活指導員や寮母職、栄養士や施設長も持論を通そうとするときに用いることであり、逆に、深い看護学に裏付けされた「生活の場」における真の専門性を発揮して、過度な医療管理に陥らないようにリーダーシップをとっている看護職員も、現場にいることを申し加えておきます。
さて、以上が「看護と介護が対立するとき」のシンポジウムを企画したときにベースになった話ですが、ここで見ておきたいことは、看護が正しいのか介護が正しいのかという問題ではありません。
上記の話には、「看護の意志」と「介護の意志」は出てきます。看護と介護の専門性は対峙しているのですが、「本人の意志」は、すっぽりと抜け落ちているのです。
「煙草が欲しい」という本人の「要求」は語られていますが、決定の土俵に「本人の意志」は乗っていないのです。
ここに今回のテーマの核心があります。 つづく
(*2)障害を持つ高齢者の入所型施設
(*3)たとえば、「当院では禁煙指導を実施していますので医師にお気軽にご相談ください」という趣旨のパンフレットを受け付け窓口の近くにおいている病院があります。パンフレットには喫煙本数と死亡リスクの相関グラフが、肺癌、虚血性心疾患、慢性気管支炎、胃潰瘍ごとに見やすく表示され、来院した病気をきっかけにして禁煙にチャレンジすることを呼び掛けています。また、タバコ依存度の自己評価テストも添付され主要タバコのニコチン含有量の一覧表なども掲載されています。
(*4)1994年3月17日神奈川県老人ホーム生活指導員研究会主催
特別養護老人ホームカトレアホーム 職員