老人生活研究No.293(財団法人・老人生活研究所)1995年8月号掲載分

高齢期知的障害者の自己決定をどう保障するか 〈下〉

                            高橋健一

6.匿名で書きたい気分

 前回は、いくぶん聞き苦しいたとえ話しになってしまいました。しかしこのような話しを表に出すことによってはじめて、私たち職員が実際にどのような態度で高齢者に接しているのかが見えてきます。
 とはいえ表に出すには、かなりの覚悟がいります。教科書に出てくるような綺麗事だけを発表していた方が楽ですし、高橋は「大人げない」「青臭い」などとも言われないですみます。匿名なら気が楽だとも思います。しかし職員が思うことも言えないようなホームでは、そこに住むお年寄りはなおさら本音を語れないでしょう。そこには福祉の進歩もないと思うのですが・・・。
 本誌94年11月号で紹介した本「知的障害を持つ人の自己決定を支える」には、スウェーデンでの現場職員の葛藤の様子が語られています。(*1)
 スウェーデンで、「知的障害の認識」とこれに基づく「自己決定」に関心が持たれ始めたのは1960年代後半だといいます。70年代には知的障害を持つ本人・親・職員・専門家(心理学者)が一体となって自己決定などの問題について取り組みました。
 心理学者ヨーランソンは、1983年の北欧知的障害協会での講演で、70年代後半の職員たちの話し合いの様子を次のように語っています。
「なぜ知的障害をもつ人にかかわる仕事を始めるようになったのか−自分を必要とする人を身近におきたかったからなのか、自己評価を高くするためだったのか、それとも、支配欲を満たす機会を得るためだったのか−等々が職員間でよく話し合われるようになったのはこの時期(70年代後半)でした。そして、討論では次のような内容も取り上げられたのでした。『私たち職員の働いている青少年ホームに誰かが訪ねてきて、たまたまそこに遊びにきていた職員自身の子供を知的障害児だと思い込んだとしたら、私たちはどんな反応を示すだろうか? 知的障害をもつ人といっしょに外出した時に、この人と自分とは違うのだということを回りにいる人にわかるようにするために職員はどのようにふるまうのだろうか? また知的障害をもつ人に、職員とは違うということを必要以上にはっきりと説明し、見せつけたことがなかったか? 自分たち職員が知的障害をもつ人に恋愛感情を持たれた時、その人に対してどのような態度を示したか?』等々。さらに『これらの行為は、知的障害をもつ人に対する職員のどのような基本的認識を示したものであったのか? そしてそのような基本的認識に基づいた行為は、本人の自己認識にどのような影響を与えたのか?』という点も取り上げられたのでした。」

7.自分をマナイタに乗せる

 スウェーデンで自己決定が盛んに論議されていた頃の1977年、私は夜学に通いながら老人ホームに就職しました。21才の時です。
 今でこそ当たり前になりましたが、当時の私は、若い男性が老人ホームで介護の仕事をしているからといって新聞の人物紹介欄で紹介されるほど、めずらしい存在だったようです。
 「若いのに偉いですね」と人からよく誉められました。まわりから「奉仕の精神がなければできる仕事ではありませんよ、たいへんな仕事をしていますね。ご苦労さまですね。」と評価されてきました。入居者の家族からも「よろしくお願いします」と頭を下げられ、入居者からも「健さんありがとう」と感謝されました。
 20才代前半の私が、傲り高ぶりの精神構造に陥っても不思議はありません。よく「先生」と呼ばれる人たちの職業病だと指摘される傲慢な行為の多くは、この傲り高ぶりが要因だといわれますが、よくわかる気がします。
 スウェーデン現場職員の「自分を必要とする人を身近におきたかったからなのか、自己評価を高くするためだったのか、それとも、支配欲を満たす機会を得るためだったのか」これは、厳しい自分自身への問い掛けです。 もちろん100パーセント、全部が全部支配欲ではないにしても、私自身、自分の姿勢の一部にそのような傾向が微塵たりともないとは言い切れません。
 ところが実際職員間では、その人の持つ、ある一部分の姿勢を指摘しただけでも、全人格を否定されたかのように感じたり、喧嘩を売られていると曲解したり、感情的なしこりになったりしてしまいがちです。
 私を含めた日本人の自己認識は、どうも事実を事実として見つめるのが苦手なようです。「臭い物に蓋」「見て見ぬふり」「寝た子を起こすな」というような態度が常識ある社会人であるかのように言われます。
 しかし、ここで蓋をしたり見えないふりをする事とは、強い立場に立つ者にとって都合の悪い事についてだということに注意が必要です。94年12月号6頁で触れたように、強い者にとって都合の悪い部分は切り捨てて、「いいとこどり」してしまうことに注意が必要です。
 たしかに、自分をマナイタに乗せることなく、強いもの同士みんなで目をつむる・・・こんな楽なことはありません。しかし私は、どうもそのぬるま湯状態に安住できず、心からの満足感を得られなかったのです。
 もやもやした気持ちで、あれこれ考えていたときに目の前に現われたのが、個別処遇方針の全員策定指導でした。本誌に寄稿する機会を与えられながら(*2)、県内の生活指導員仲間たちとあれこれ考えてきました。
 その課程で操作主義批判の視点と出会い、自分の持つ操作性が見えてきます。生半可な知識をもとに専門家気取りになり、目の前の入居者を自分の手のひらに乗せて抱え込んでいる自分自身の姿が見えてきたのです。

8.デンマークの現場でも、自己決定の混乱があった

 デンマークのオーフス市、カリタス・プライエムの所長、ビエギット・ミケルセンさんは、1992年に来日し、私の住む茅ケ崎市に立ち寄り、高齢期知的障害者の自己決定などに関する講演を行なってくれました。
 ミケルセンさんの話しに感動した私は、講演の後に質問をしました。「自己決定権を重視しているデンマークでの介護に感激しましたが、自己決定能力に問題がある痴呆性老人の自己決定として、たとえば、ご飯を食べたくないとかシャワーを浴びたくないなど、介護を拒否されたときに、現場ではどうするのですか?」と尋ねたのです。まさに、東京「老人に関する本を読む会」の疑問と同様の質問だったと思います。
 通訳の人を交えながらのやりとりのために必ずしも正確でないかも知れませんが、私なりに解した内容を紹介します。
 ミケルセンさんは、私のこの質問に我が意を得たりという表情で丁寧に答えてくれました。
 「デンマークでも、自己決定権の概念が導入されたとき、現場では確かに混乱がありました。
 痴呆症の老人への着替え、離床、食事などの介護の際、老人が『いやだ』と言うのならば、痴呆症状からくるものと思われてもそれは『本人の自己決定だから』と、現場職員が介助を躊躇して動けなくなるという事態です。
 そこで私たち職員は、自己決定と介護について何回も話し合いを持ちました。そして、このような対応姿勢をとることにしたのです。
 それは、自己決定と並ぶ原則のひとつである、「生活の継続性」の視点から導かれるものです。
 その人が知的障害を持たなかった時期には、ふだんどのような状態で食事をしていたのか、入浴をしていたのか、日常生活をどのようにおくっていたのか、この継続性が保たれるような介護と環境が保障されるべきだというものです。
 生活の継続性から見たときには、食事を拒む人に対して『本人の自己決定だから』と、全く手が出せないということはないでしょう。継続性を保障するための介護は、さまざまな工夫が試されるべきでしょう。スプーンをその人の口の前にもっていくこともあるでしょう。
 しかしここで間違えてはならないこと、そのとき大切なことは、介護者は、『相手の自己決定に踏み込んで自己決定権に侵入している』という事実をしっかり自覚している必要があるということです。
 たとえそれが本人のためになる行為だと確信していても、自己決定権への侵害の事実は自覚されなければならない。そこが肝心なのです」というのです。
 ミケルセンさんは、私の腕をつかむと前に引っ張り立たせようとしながら、「私はここに座っているあなたの自己決定に踏み込んだ行為をしています。
 『あなたのためにやっているのだから感謝しなさい』と言ったって、あなたは『余計なお世話だ』と思うでしょう。
 いい事をしてやっているんだから感謝しなさい、などというような援助の押しつけをあなたはしていませんか」と言いながらミケルセンさんは私に、あたたかく微笑みかけました。
 そして終わりに、「『自己決定能力』に障害があっても、どんな人にも『自己決定権』はあるのです」と何度も力強く話されました。
 デンマークにも、現場での混乱や戸惑いはあったのです。この話しに出会えて私はとても心強く思いました。
 「みーんな、悩んで大きくなった」わけなのですから。
 事実を事実として認識し、現実を理想に近づけていこうとする真摯な姿勢。これがデンマークの福祉の進歩を支えていたのです。
 ミケルセンさんの言った、「たとえそれが本人のためになる行為だと確信していても、自己決定権への侵害の事実は自覚されなければならない。」「あなたのためだから感謝しなさい、という援助の押しつけをしていないか」という意見と問いかけ・・・
 わたしたち日本の高齢者福祉の従事者は、この認識にあまりに鈍感な気がするのです。
 また、拒食など介護を拒むという状態は、本来その人が望む、生活の継続性が保障されていない事実を物語るものであり、介護者側に問題があるということを証明する状態だということです。
 つまり高齢期知的障害者本人の問題ではなく、介護の問題、すなわち私たちの介護がふさわしく行なわれていないということの証明だということです。
 ここを履き違えると、回廊型の重度棟施設の轍を踏みます。
 廊下をグルグルと「自由」に歩かせれば疲れ果てて寝るだろうという、回廊型の発想とでもいうべき介護姿勢があります。
 回廊廊下を徘徊しつづけても疲れない場合には向精神薬を使用して動かなくさせるなどという事になるわけですから、ここでいう「自由」とは、ベッドに抑制する(縛る)よりは自由に徘徊させるという意味の自由でしょう。当事者は不安の為に徘徊しつづけるわけですから、本来の自由とはかけ離れたものといえます。
 「管理上安全に、いつまでも自由に徘徊させる」という回廊型の発想が、問題意識をもつこともなく、かえってよい手法としてもてはやされるような風潮には、批判が必要です。
 この回廊型の発想の対極に位置する介護姿勢として、グループホームケアがあります。(*3)
 まだ、自分自身の体験がないので何ともいえませんが、グループホームケアは高齢期知的障害者の不安要因を取りのぞき、生活の継続性を回復し、安心して暮らせる関係と環境を保障していこうとする具体的試みです。いま私は、グループホームケアにとても魅力を感じ、興味を持っています。

  9.逮捕、監禁、薬物投与!?

 刺激的な見出しになりましたが、今年(95年)の3月からマスコミを独占した一連の出来事が、私とはまったく別の世界の出来事とは思えないのです。
 一部の報道の中で「マインドコントロールの恐怖」という本が取り上げられましたが、じつは本誌93年7月号の私の原稿の中で、操作主義の批判のために引用しようとしていた本だったのです。
 しかし当時は、マインドコントロールという言葉自体が、突飛で馴染みの薄い引用事例だと思い、あえて割愛したのです。
 ところが今回の一連の出来事で、私たちの社会がこの事にあまりに無防備であるということが示されたともいえるわけで、自己決定を考える上でも大きな関連があると思うので、あえてここで取り上げることにします。
 それは、現場職員の善意による操作主義的行為を具体的な事例をもとに批判していく課程で気づいた視点でした。(*4−1)
 ここで私は、私たち職員が老人の人生に土足で踏み込む行為を無自覚に行なってしまう背景に、「正義の意識」があることを指摘しました。
 「しかし“人は正義を振りかざす時ほど、自らを省みれない”という言葉があります。“自分は一生懸命、老人のためになる事を与えようと頑張っているのだから”と思っているとき、職員は自らの姿勢を省みれなくなります。実はここから、老人の自由を制限する規則や指示、“よけいなお世話”や“押しつけ”がうまれてくるのです。」(*4−2) この後に続けようとして割愛したのが、次の部分です。
 「ある破壊的カルト宗教の信者は、資金集めなどのために部外者をだますとき、その嘘は信仰上の考え方として『天的な嘘』であり、『もし人がまだ光を見ておらず、またその光が宗教の世界のものでないならば、その人は悪の世界にいるのであり、したがってもっと高い目的のためには、その人をだましていい。』と解釈し嘘が正当化されるというのです。(*5)
 これらを『ひそかな操作』もしくは『仕組まれた自発性』と呼ぶそうですが、『善いことのためには、人をひそかに操作してよい』という考え方と、『善いこと』の解釈には、実際には歯止めがなくなる危険性があることがわかります。」
 ・・・たしかに、今だからわかる気がします。今年の3月以前には、私たちの社会とは無関係に思えた世界でした。
 要約すると、善いことを判断できない(まだ光を見ていない)人は、その能力がないのだから、かわりに(光を見た人が)判断を下して、操作してあげなければならない。この論法で、相手の自己決定権を否定してしまい、(高い目的のためには)人をひそかに操作することを肯定してしまうというわけです。 本当にどこかで聞いたことがある論法です。
 本人の主体性と自己決定を尊重する理解的態度(前項のグループホームケア的態度)の、対極にあるところの操作的態度(回廊型的態度)が、行き着くところの結果を露呈した出来事ではないのか・・・と思うのです。
 ここで確認しておきますが、もちろん私たち職員の善意が、すべて破壊的カルト宗教のようなものだ、などと言っているのではありません。しかし、自己決定権を否定した操作主義が、いかに危険なものなのか、また私たちの社会がこれらの事にいかに無防備であるのか、そしていつ自分が当事者になるかも知れないという警鐘として、今回の一連の出来事を捉えるべきだと思うのです。
 私たち現場職員が、自己決定権に無自覚なままに高齢期知的障害者に向かうならば、老人福祉はこの項のタイトル「逮捕、監禁、薬物投与!?」と実態は変わらなくなってしまうのではないか・・・そんな不安がよぎるのです。
 以上が、私とはまったく別の世界の出来事とは思えない、理由です。

10.「自由にさせる」と「自由である」ことの違い

 「A家の姑は、『我が家では、台所に関しては全部、嫁の自由にさせています』と語り、それが3世代同居をうまくやる秘訣だと近所に自慢していました。実際に嫁は、献立も買物も調理も片付けも自分ひとりでやっていましたが、A家の嫁はそれを自由だとは思えませんでした。そこでの自由とは、嫁と姑という上下の関係から『許可して与えられた自由』だと感じていたからです。」(*6)  このたとえ話しを聞いたとき私は、ドキリとしました。姑の自慢話しは、私たちホーム職員と同じ次元にあるのではないかと。
 「あまり厳しくならないように、ある程度は自由にさせてやりましょう」という職員サイドの発想で、「煙草は日に何本くらい吸わせてやろう」とか、「行事の時にはビールを出してやろう」など、許可して与える自由は本当の自由といえるのでしょうか。
 「自由にさせている」という自由は、上から下へ許可されることであり、本来の自由とは違うのではないでしょうか。
 「火曜日と金曜日は夕食にお酒が飲めます」と発表している施設がありましたが、見方をかえれば、その日以外は「酒は飲ませない」ということを物語っています。
 私は茶化しているのでも、イヤミを言っているのでもありません。自由が許可して与えられている事実を見ているのです。もちろん様々な現実の制約のなかで、改善の努力を重ねている実践には最大級の敬意を表します。私自身も同様のステップを踏み、挫折を繰り返し、いまだ理想とする自由とは程遠いところにいます。自分のことを棚に上げているといえばその通りです。だからこそ、事実をはっきりさせておきたいのです。
 また、先月紹介した介護と看護の対立の話しでも、「看護職員の意志」と「介護職員の意志」は出てきますが、「本人の意志」は、すっぽりと抜け落ちています。
 本人の意志は、決定の土俵に乗っていないのです。
 私たち職員の手のひらの中で、いかに自由にさせるかのみが論議されているのです。
 このような現状だからこそ、入居者本人の自己決定権の明確化が必要だと思うのです。
 そしてもうひとつ、最近の自己決定についての論議の中で気になることがあります。それは、自己決定が「メニューの選択」と混同されて論議されているのではないかという点についてです。
 よく「ビールにしますかワインにしますか」などと例示されますが、選択肢は職員が決めてしまい、そのうちのどれかを選ぶのが「自己決定」なのだとしてしまう意見です。これは論理のすりかえになってしまう危険があります。危険というのは、都合の悪い部分はメニューから排除し蓋をして「いいとこどり」し、自己決定権を骨抜きにする便法になりえるからです。
 ここで、本誌94年12月号4ページ冒頭でも紹介した、座談会での岩田克夫さんの意見の一部を引用します。
 「自己決定が浸透したら、職員の姿勢が変わりますよ。ある程度本人に選択させるというのは、逆に時間がかかります。そうするとどこまでの職員が、それに対応できるかという問題にぶつかってくるような気がするんですね。だけどこれは基本理念だから、これが浸透することが必要です。」(*7)
 私も職員の姿勢が変わることが求められているという点には同感です。しかし、ここでいう「ある程度本人に選択させる」ということは、どのような理念から導き出されたものなのでしょうか。  言葉尻を捉える気は毛頭ありませんが、「選択させる」の「〜させる」は、私がテーマにしてきた操作主義のキーワードです。この「〜させる」という表現を用いる姿勢で、自己決定の基本理念が語られるのが不思議でなりません。
 座談会という限られた条件の中での表現ですから、またぜひ他の機会に詳しい説明をお願いしたいと思いますが、ともあれ「許可して与える自由」の中で、決められたメニューを「選択をさせる」ことが自己決定であるかのような混同が、現場職員に浸透してしまうようなことのないよう願うしだいです。

11.おわりに

 前号の、東京「老人に関する本を読む会」の問いかけに応えるために、今まで私が本誌に寄稿してきたものへの補足を含め、できるだけ具体的事例をもとに考えてみました。
 その課程であらためて見えてきたことは、自己決定の理念は、手法(ノウハウ)をマニュアルで規定できる性質のものではないということでした。
 私たちの現場では、アメリカ産のケースマネージメントやケアプラン、そのアセスメントなど、具体的な手法がマニュアル化されコンピューターソフトにまでなって、洪水のように導入されてきています。
 ここで、ひとつの「能力」の捉え方なのですが、アメリカは「知能」の概念を用いるが、ヨーロッパは「知恵」の概念を重視しているという見方があります。(*8)これは的を得ている捉え方だと思うのです。微妙な違いですが、現場では大きな違いを生じます。 福祉学者が競って紹介するアメリカの具体的技法は、まさに「知能」重視、目に見える効果を達成するには有力な手段となります。 反対にヨーロッパとりわけ北欧は、目に見えない「知恵」を活かす介護姿勢があるように感じます。
 本来日本人は、気を配ったり、察したりと、目に見えない「知恵」をめぐらす術に長けた国民であったはずです。マニュアルにしにくい北欧の考え方を、「日本人にはなじまない」などと言って簡単に切り捨てるのではなく、福祉学者は北欧の「知恵」を実証的にあきらかにして、もっともっとわかりやすく、日本の現場に紹介してほしいと切に願います。
 おわりに、「ノーマライゼーションの父」と呼ばれるN・E・バンク‐ミケルセンさんの言葉を引用します。
 「ノーマライゼーションとは、特別に新しい哲学でも、またイデオロギーでもありません。むしろ、ノーマライゼーションとは実践なのです。なぜなら障害者に接するときに、特別な理論など必要ないからです。障害のない人と同じように接すれば良いのです。」(*9)
 この「ノーマライゼーション」の部分を「自己決定」と置き換えて読んでみると、とてもすっきりと心にしみてきます。
 自己決定は、もともと権利を振りかざすためのものではありません。
 人間の尊厳を支える基本理念はシンプルなはずです。ごく当たり前のことを大切にすれば、自然に導き出される「知恵」なのだと思うのです。
 私たちの目の前の現場から、この「知恵」を生み出していきたいのです。

(*1)「知的障害を持つ人の自己決定を支える」 柴田洋弥他著 大揚社 18頁
(*2)老人生活研究92年9月号(258号)
「監査による個別処遇方針策定の指導を問う」 本誌92年12月号(261号)「個別処遇方針の策定は全員に必要か」 神奈川県老人ホーム生活指導員研究会
老人生活研究93年7月号(268号)「人権の視点から操作主義を問う」等へ寄稿
(*3)「グループホームケアのすすめ」 今村千弥子他著 朝日カルチャーセンター
(*4−1)本誌93年7月号(268号) 「人権の視点から操作主義を問う」
(*4−2)同21頁
(*5)「マインドコントロールの恐怖」 スティーヴン・ハッサン著 恒友出版 373頁
(*6)本誌93年10月号(271号)「『ノーマル』って、なんだろう」15頁
(*7)「老施協」 第242号 座談会「特別養護老人ホーム・老人保健施設のサービス評価基準をどう受けとめていくか」
(*8)叢書<産む・育てる・教える−匿名の教育史>3「老いと生い」隔離と再生 中村桂子他著 藤原書店 30頁
 (*9)「ノーマライゼーションの父」 N・E・バンク‐ミケルセン 花村春樹 訳・著 ミネルヴァ書房 116、168頁


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