1991年5月カトレアホームだよりから
ノーマルよりもナチュラルで
高橋健一
カトレアホームは創立12周年を迎える。(1991年5月)
12年前のホーム創立当時は、ぼくは横浜にいたのだけれど、その頃のことを思い出すと、ノーマライゼーション(ノーマリゼーションともいう)という考え方に出会い、すごく感動したことをおぼえている。
直訳すると標準化とか常態化という意味だ。
福祉の世界では、障害者が健常者と変わりなく生活ができるような社会にしようと言うときによく使われる。
違いがないようにしていく事自体は問題ないのだが、それとはちょっと異なる次元で、ここのところ気になっている事がある。
ぼくを含めて日本人の考え方の傾向に、意見や考えが「同じ」であることが「いい」こと。「違う」ことは「悪い」こと。という捉えかたがあるのではないかということだ。
よく「価値観の違いだよ」などと言って、関係を絶ったりもする。
そんな時、「違う」という状態を、ひどく否定的に捉えてしまっていないだろうか。
そのパターンで捉えてしまうと、健常者と違うこと自体が否定的となり、障害者は、その障害自体が悪いことになってしまう。これはどうもピンとこない。昨年、ある集まりでオーストラリアからの女子留学生と話す機会を得た。
その時の話題で、日本の風習と、オーストラリアとの違いが話題になった。するとある人が、
「日本の、悪いところはどんな所ですか」
と、質問した。
彼女は、すかさず「悪いところではなくて、違うところがいろいろあります。おもしろいです」
と答えた。
その時、ぼくはハッとした。
「違う」と聞いたとたんに、どこが悪いのか、どっちが正しいのかと、否定的な定義づけを捜すパターンが身に染み着いている事に気づいた。
「違う」ということをそのまま受け入れて、ただ「違う」ということだけを認識していない自分に気づいたのだ。
これはなかなか、ぼくの観念の奥深くまで染み着いていて、なにかと鎌首をもたげる発想パターンだ。
ぼくは、健常者でないと、いけないと思いこんではいないか。
標準でないことは、悪いことだと思っていないか。
では、健常とか標準とかいうのは、なになのかということになる。
標準を現わす言葉のひとつに
「らしさ」という表現がある。
男らしく、女らしく、子供らしく、親らしく、生徒らしく、社会人らしく、福祉職らしく・・・・
しかし、「らしさ」というのは、時によって、その人の、ありのままの状態を押え込み、標準という型にはめ込もうとする時に使われるような気がしてならない。
「〜らしくない」と、批判の手段にもよく使われる。
ぼくの母方の祖父はキリスト者で戦時中、戦争に反対し、投獄され亡くなった。
当時の「標準」では、そういう人を「日本人らしくない。非国民」
とよんだ。
標準化は、へたをすると個性の違いをつぶしかねない。
今回の湾岸戦争も、
「アメリカと違う考えを持つことが悪いこと」
「軍事力を使わないと、国際社会の一員らしくない」
と日本の政治家は考えているのではないか。
「ノーといえる日本」などというが、なにも相手を否定する必要もない。
アメリカと意見が違っても、日本は日本の意見を持っていても、違うだけなのだから、悪いことではない。
「国民らしく」などと型にはめる前に、私という人間は殺しあいはいやだ、戦争はいやだ。
と、ひとりひとりが素直に、ありのままに言えたら・・・・。
同じなのは、うれしい。楽しさが倍になるような。
違うのは、おもしろい。ひとつの事でも違った見方がいくつもあるなんて。
ノーマル(ふつう)よりも
ナチュラル(ありのまま)で
もしかすると、ものすごく単純なことかもしれない。
12年目のスタートは、
ここからだな。