篠さんからのメール2/2


篠さんの許可を得て掲載しています

   
篠 秀夫
さん    


Date: Sun, 15 Feb 1998 15:23:09 +0900 (JST)
From: 篠 秀夫 EZNENE@cg.netlaputa.ne.jp


 結論から言うと“対立すべき他者の喪失”ということが子ども達が幼稚化していく一番大きな原因だと思われます。ここでいう“対立”とはべつに喧嘩のような対立を意味するのではなく、知・情・意・身体レベルでの様々な能動的行為をフィードバックしてくれる他者というような意味です。
 以前、父親が息子の家庭内暴力に耐えきれずに息子をバットで殴り殺すという事件がありました。この息子は以前から暴力がひどく、父親は様々な専門機関を渡り歩いて相談したそうです。そして、その専門家たちの意見は一様に“逆らわない方がよい。”ということだったようです。
 去年、「賢治の楽校」での出来事です。ある2,3才の子がある先生に“うるせいな、このくそじじー!」(はっきり覚えていないのですが、このような内容の言葉です。)という言葉を投げかけたとき、その子と一緒に参加していた別の母親は(その時当人の母親はその場に居なかった)「小さい子どもだから、まだ訳が分からなくて言っているのですから許してやって下さい。」と取りなしていました。
 先日、藤沢の幼児サークルに呼ばれてサークルの活動を見に行ったのですが、会場の玄関にある玉砂利を子ども達(2,3才)が床中にちらかして遊んでいるのです。子ども達は楽しそうですが公共の施設でのそのような奔放な遊びに注意している親は見あたりませんでした。後で片づければ良いと思っているのでしょう。「こんな小さい子に言ってもよく分からないから」ということがあるのだと思います。
 以前読んだ小児科の先生の本に出ていたことです。あるお母さんが子どもの言葉の遅れを気にして来院したそうです。そこで色々話してみてその先生はその母親に聞きました。“お母さんは、この子が小さいときいっぱい語りかけをしましたか”と。そのお母さんの答えは“だって、赤ちゃんって、言葉が分かんないでしょう。話しかけてもしょうがないんじゃないですか。”
 このお母さんは別に特別な人ではありません。実際、この話に近いような話は私も色々なお母さんと接していて聞いたことがあります。
 このようなエピソードを“今の親はしつけが出来てない”というようにくくってしまうのは簡単です。実際、例の中学生の事件以来新聞などで現代の子ども達がいかに甘やかされているか、ということがよく記事や投書で掲載されています。
 確かに、しつけは大切です。でも、そのような記事や投書で語られている“しつけ”はなんとなく犬や猫のしつけと同レベルのものなのです。“甘やかすから、そうなるんだ。もっと厳しくびしびしすべきだ。”という程度の内容なのです。裏から穿って(うがって)考えると「恐怖や体罰で大人の言うことを聞くように訓練しろ。“人権人権”などとほざく人権ぼけがいるからこうなるんだ。」ということなのでしょう。
 ところが、私には、「ビシビシ叩いて厳しく仕付けろ」と言っている人も、「何でもかんでも人権」と騒いでいる人も同じ人種に見えてしまうのです。戦前は「ビシビシ叩いて厳しく仕付けろ」と言ってたのが、戦後は少なくとも公的には「人権が大切」という風に変化してきましたがここにあるのは価値観の変化です。でも、価値観などというものは人間にとってただのカンバンに過ぎません。人間の価値観など一瞬にして変わってしまうこともあるくらい頼りないものです。もう1,2度、子どもによる悲惨な事件が続けば「ビシビシ仕付け」派が世の中を支配するようになるかも知れません。
 本当に人間が変わるために必要なのは、「見方、感じ方、考え方」が変わることなのです。人権が大切、環境が大切といくら騒いでも「見方、感じ方、考え方」の変化が伴わなければ人権の名ものとに人権が侵害され、環境の名のもとに環境が破壊されるということが起こってきます。平和の名のもとに戦争が起きるように。
その「見方、感じ方、考え方」を変えるためには“からだ”という視点が大切なのですが、ここでは触れません。(江澤さん、つっこまないで下さい。税金の申告が終わらなくなってしまう。)
話がずれてきました。もとに戻します。

人間はいかにして自己を知るか。
人間はいかにして他者を知るか。
いかにして自己が存在する世界を知るか。
いかにして自己とその世界との関わり方を知るか。

 ここから話は始まります。一見非常に哲学的で、何で突然こんな話になるのかと思われるかも知れませんが、現代の子どもを語るにはここから始めなければ本当の問題は見えてきません。
 話を急いで結論を言ってしまいます。順序を追って話していると本を書かざるおえなくなってしまうので。

「人間は他者の存在を認識することを通して自己を認識する」ということです。
人間が自分自身、そして自分が住んでいる世界を知るには、自己の知・情・意・身体レベルでの活動をフィードバックしてくれる他者がどうしても必要なのです。しつけ、規則などは自己の活動をフィードバックしてくれる他者として必要なものです。親や大人に都合が良い子どもに育てるためにしつけや規則が必要なのではありません。ただ、そのしつけや規則はその内側にきちんとした哲学を含むものでなければなりません。ただの慣習や、その場限り、世間体を気にしたしつけ、規則では子どもは混乱し他者を正しく認識できなくなるだけでなく、自己を正しく認識することも出来なくなります。
 その点、物の世界はシビアーです。子どもだからと言って物理法則が変わることはありません。階段から足を踏み外せば子どもでも落ちてしまいます。

 去年はちょっとした哲学ブームでした。小説仕立ての哲学入門書「ソフィーの世界」などがベストセラーになったりもしました。でも、哲学を語る人はいても、哲学を持って語ることが出来る人にはほとんど出会うことが出来ません。
現代で必要とされるのは方法であって、哲学ではないようです。親や教師は様々な本を通して教育法を勉強します。いじめなどの問題に対しても問題を解決するための様々な方法が模索されています。「心の教育」などのその方法の一つとして出てきたのでしょう。でも、方法は子どもにとっての他者にはなり得ないのです。実際にはその方法を子どもに対して実践する大人が他者ということになるのでしょうが、当の本人はただの方法の実践者として子どもの前に居るだけでなので、子どもが自己を認識するための対立すべき他者としての存在感がありません。簡単に言ってしまえば、現代では教師はテレビと同じなのです。
 テレビもパソコンもそのような意味での他者にはなりません。パソコンなどが他者として現れるのはバグに引っかかったり、突然フリーズしてしまった時です。そのとき、人は突然我に返り、「今まで入力したデータは・・・・。」と呆然としたり、何とか原因や抜け道を探して問題を回避しようとします。
 そうなのです、この問題は実は親や教師の問題でも、単なる教育問題でもなく文明のあり方そのものから発生している問題なのです。
(突然、話が飛躍してごめんなさい。丁寧にフォロウしている時間がありません。)


 紙を切るときはハサミで切ります。ハサミという道具は自己の身体の延長であ って自分が向き合う他者ではありません。この場合は他者とは紙のことでしょう。 でも、ハサミという道具を通して出会う他者は布であろうと、ダンボールであろ うと硬いとか、切りにくいという要素に還元されてしまい紙、布、ダンボールな どのそれぞれ固有の特性に出会うことはありません。道具とか方法を通して関わ るということは他者の固有の特性を消していく働きを持っていると言うことは知 っておくべき事でしょう。
 また、不便な山奥に住んでいれば自然は対立すべき他者として存在していますが、道路を通し、電気を引き、電話を通し便利にすればするほど対立すべき他者は消えていきます。
 資本主義は対立するもの同士の競争によって成り立っています。ところが、そのことが対立する相手を抹消してしまうという結果につながってしまうのです。日本中どこへ行っても同じ様なお店、風景が並んでいることがその証拠です。つまり、多様であるから成り立つ競争原理によって、多様性が抹消されてしまうという皮肉な結果が起きているのです。
(資本主義はその原理の特性の一つとして、動物世界の弱肉強食に例えられることがあります。でも、それは嘘です。動物世界を支配している原理は弱肉強食などではありません。)
 このことは、人間の思想、生き方についても言えます。現代の近代科学文明はその働きとして唯一の絶対原理の元に全てを収斂させてしまう力を秘めているのです。でも、それをそのまま放置していては資本主義の自殺につながってしまいます。そのため、それを回避するために弱者、少数者を保護するための様々な方策が採られています。でも、あくまで対処療法としてです。
 文明化する、便利になるということはそのまま他者を消していくという行為なのです。それはとりもなおさず、自分たちを映し出してくれる鏡を失っていくということなのです。そして、その結果我々現代人は自己を成長させる手がかりを失い、同時に対立に耐えられない心とからだを持つようになってきました。そのような現代っ子のひ弱さの原因は、単純に甘やかすというような言葉でくくれるようなことではないのです。
 “厳しく仕付けろ”という大人は子どもを便利な存在にしようとし、またやたら物わかりの良い大人は、子どもにとって便利な存在であろうとしています。でも、そのいずれもが子どもにとっての大切な他者を喪失させているということに気付いていません。
 その結果、子どもは自分を成長させることが出来ずに幼稚な精神のまま大人になってしまっているのではないかと思うのですが。

済みません、時間が足りなくてかなり大ざっぱな話になってしまいました。ご意見ご感想、反論を下さい。

===========================================================
篠 秀夫

生命を考える(心とからだの休憩所)
http://www.NetLaputa.or.jp/~EZNENE/
E-mail: EZNENE@cg.netlaputa.or.jp
===========================================================


Date: Sun, 15 Feb 1998 18:21:25 +0900 (JST)
From: 篠 秀夫 EZNENE@cg.netlaputa.ne.jp

高橋様

今回のメールとその前のメールとのつながりでいうと、「自分をしっかりと持っ ているような子は幼稚園でも学校でも問題児であることが多い」という所で、問 題児と言われるような子の方が、良い子と言われる子より遙かに対立する他者が 多いということが言えると思います。
ただ、対立すべき他者が必要であると言っても、子どもに立ちふさがるような壁 であってはいけません。壁は自己を映す鏡にならないばかりか、子どもに無力感 を与えます。
親の愛情は子どもにとって親が良き他者である時に意味があるのでしょう。

===========================================================
篠 秀夫

生命を考える(心とからだの休憩所)
http://www.NetLaputa.or.jp/~EZNENE/
E-mail: EZNENE@cg.netlaputa.or.jp
===========================================================


Date: Mon, 16 Feb 1998 10:18:05 +0900 (JST)
From: 篠 秀夫 EZNENE@cg.netlaputa.ne.jp

しつこくて申し訳ありません。一回考え出すと全部出し切るまで止まらなくなっ てしまうのです。


昔の子ども達の異年齢集団もこのような視点から捉え直してみることができます。
異年齢で、かつ昔は社会形態ももっと多様であったため、同年齢でも家庭の状況、 育ちの状況は一人一人大きく違っていました。そのような多様な子ども達の集団 では対立すべき他者が多く、他者を通して自己を見直すことも多かったのではな いかと思います。
 でも、現代のようには同年齢、経験も育ちも、家庭環境も似たり寄ったりの同質の子ども達の集団では対立する他者が存在しにくいのではないでしょうか。
 また、多種多様な人間の集団は小さくても有機的な社会を構成することができますが、同質の人間だけでは数がいくらいても有機的でみんながつながりあえるような社会を構成することは難しいでしょう。そのことが恣意的に異質な人間を作り上げるということにつながっているのかも知れません。仲間内に異質な人間を作り上げることによってわざと多様性を産み出し、そのことで簡単な社会が構成され、仲間同士がつながれる状況を作り出せるのかも知れません。いじめもこんな視点から考えてみる必要があるかも知れません。
 だとすると、現在テレビや新聞などで紹介されている識者の意見はほとんど全部的外れだということになりますが・・・。

===========================================================
篠 秀夫

生命を考える(心とからだの休憩所)
http://www.NetLaputa.or.jp/~EZNENE/
E-mail: EZNENE@cg.netlaputa.or.jp
===========================================================

篠さんからのメール1/2へ


このごろ思うことへ戻る