篠さんからのメール1/2


篠さんの許可を得て掲載しています

   
篠 秀夫
さん    


Date: Fri, 13 Feb 1998 13:42:41 +0900 (JST)
From: 篠 秀夫 EZNENE@cg.netlaputa.ne.jp
To: Takahashi Ken-ichi kent@shonan.ne.jp

高橋様

ありがとうございました。面白く読ませて頂きました。
数日前、読売新聞に精神科医の香山リカさんの文章が載っていました。
以下に、少し抜粋します。

  従来ならそういうケースは、暴力などに話が及ぶと必死で
  隠そうとしたり腹を立てたりしたものだが、「はあ、そう
  みたい」と自らの逸脱行動をあっさり認める場合も多い。
  まるで他人のことを話しているかのように。

  ひと頃は「自分が自分じゃない」という離人感と呼ばれる
  訴えをする人が目についたが、さらにその下の世代は「そ
  うだよ、自分は他人なんだ」という解答を出してしまったか。

ここで言われているようなことは、意識が身体から遊離してしまっていることの
証しではないかと思います。「私は私である」という実感は自分の“からだ”が
他者と直接に関わることを通して確認するしか方法はありません。
名前であるとか、地位、成績というようなデジタルな情報は自分の属性であって
も「私は生きている」という実感はそこからは生まれてきません。
以前、朝日新聞に、あるいじめに会っている子の言葉として、自分の手をナイフ
で切り、流れている血を見ているときだけ自分が生きていることを実感できる。
というようなことが紹介されていました。この子はおそらく自分の手を切るとい
う行為だけが唯一自己が能動的に自分自身の身体に関わる行為なのでしょう。実
際、自己が自己を確認するためには自分の身体を通しての能動的な他者(もしく
は自己)への関わりが絶対に必要なのです。
現代の教育は地位であるとか成績であるとか人間の社会的属性は色々付けてくれ
るようですが、人間そのものを育てるということは全く視野に無いようです。
現代では人間は“私は私”という自我意識が希薄なただの能力とデータの集合体
なのです。この点で人間はコンピュータと似た存在になりつつあります。
身体性のない“私”だから簡単にコンピュータの中に拡散していけるのです。
また、残虐ということも意味を持たないのです。コンピュータはどんな残酷な映
像を画面に映し出していても調子が悪くなると言うことはありません。逆に、ど
んな美女が映っていても調子が良くなることもありません。
今の子どもの心がこのコンピュータのようになっているとしたら・・・・。
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篠 秀夫

生命を考える(心とからだの休憩所)
http://www.NetLaputa.or.jp/~EZNENE/
E-mail: EZNENE@cg.netlaputa.or.jp
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Date: Sat, 14 Feb 1998 07:01:35 +0900 (JST)
From: 篠 秀夫 EZNENE@cg.netlaputa.ne.jp
To: Takahashi Ken-ichi kent@shonan.ne.jp

高橋様

誉められるとつい調子に乗る性格なので、さらに付け足します。
デカルトは自分を構成する一つ一つの要素を意識で否定していって、最後にその
否定しようとしている自分自身の意識だけはどうしても否定出来ずに、“我思う、
故に我あり”と言ったと読んだことがあるような気がします。
このような考え方をするためにはまず自分を対象化する能力と“私”という意識
に集中する力が必要です。
ところが現代の若者にはその自分を対象化する力も、“私”という意識に集中す
る力もありません。
現代の若者の特長として言われることに、自分のことを説明出来ないということ
が揚げられます。自分の行動、感情、考えを他人に分かるように言葉で説明出来
ないのです。単純に、むかつく、いらつくというような表現でしか自分の感情や
思いを言葉にすることが出来ないのです。
テレビや新聞などでは子ども達は何にむかついているのか、何にいらついている
のかということを知ろうとしていますが、問題は“ムカツク”“いらつく”とい
うような幼稚な言葉でしか自己を表現できない知的な幼さが問題なのです。
 日々、子どもと接していても今の子どもの知的幼さのひどさを強く感じます。
馬鹿ではないのです。また、障害があるわけでもないのです。ただただ、幼児的
なのです。幼児的な精神のまま身体は大きくなり、欲望は強くなっていくのです。
そのような子どもは学校や社会から年齢相応の能力や行動を要求されることに強
いストレスを感じているのではないかと思うのです。
例のナイフの事件も中学2年生がやったと思うからショックなので、中二の身体
に幼児の精神をくっつけてみればそれほど突飛な事件ではないはずです。
そして、今の学校にはそんな子があふれています。鉄砲が欲しくてナイフで警官
を襲ったなどという事件はあまりにも象徴的です。

 日々子どもと接していて面白いのは「この子はしっかり自分を持っているな」
と思えるような子は、学校や幼稚園、また家庭内での問題児であることが多いの
です。先生のいうことを聞かない、反抗する、落ち着かない、汚す、口答えをす
る、いたずらをするなどなどいわゆるいい子ではないのです。
そんなことを見ていくと、今の幼稚園とか、学校って何なんだろうというという
ことを強く考えてしまいます。

最後に、デカルトは自己を否定していきましたが、自己を客観視し否定するとい
う高度な精神能力を持たない今の若者は、かわりに自己を消してしまう能力を身
につけました。つまり、“我思わず、故に我存在せず”ということです。
そして、もともと存在しない仮想空間のなかのロールプレイの中に居るときだけ
自己を対象化することが出来、動き回るキャラクターの中に自己の存在を確認す
ることができるのでしょう。

(なぜ、今の子ども達の精神が幼いままであるのかと言う点はここでは触れませ
ん。)
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篠 秀夫

生命を考える(心とからだの休憩所)
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この後すぐに篠さんから追伸が3本届きました。→篠さんからのメール2/2へ
話は核心へと展開します。しっかし篠さん、すごいエネルギー!


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