こころコロコロ、いろんな文体が散乱しています(^^;
(戦後53年12月31日)白河育成園のこと
(戦後53年10月25日)福祉施設での体罰深刻
(戦後53年10月7日)立花隆さんの「税金を食べる人」
(戦後53年9月23日)永和良之助さんの講演会
(戦後52年7月20日)父権復興
(戦後52年7月1日)今のぼくと 神戸の事件
(戦後52年6月25日)中空構造日本の深層
白河育成園のこと
ご無沙汰していました。
秋から暮れにかけて、仕事が立て込んでなかなか更新できませんでした。
その間も世の中はめまぐるしく動いていて、ぼくの頭の中もいろんな想いが渦巻いています。年内に少しだけ思いを書いておきます。
福島県西郷村の知的障害者施設「白河育成園」(渡辺留二理事長)に関する一連の報道には、同じ福祉の世界で働く者として、とてもつらい思いでいます。
弁護団からの話では、すざましい実体があるようです。特異まれな事件なのか、それとも氷山の一角なのか。いずれにしても、自分自身が当事者となり得る可能性のある出来事として受けとめていきたいと思っています。
白河育成園の事件に関することは、インターネット上では検索サーバgooに、「白河 虐待」のキーワードを入れると、関連情報を見つける事ができます。
介護保険も国会を通りました。肝心な運用面での具体的なことが全然論議されないままに法が成立しました。今の時点で確実に言えることは、保険料という名の「増税」が実施されるということです。こうなったら最低限、この税金(保険財源)の使い方を国民のものにしていくしかありません。しかし、いま広瀬隆さんの「私物国家」(光文社・ISBN4-334-97153-9C0095)を読みながら重い気持ちになっています。
明日の元旦も出勤ですが、正月休みは、いろいろ書き留めておきたいことがたまっているのでオトソはほどほどに過ごしたいと思います。では、よい年をお迎え下さい。
福祉施設での体罰深刻
(23日から書き足しています)
10月21日神奈川新聞の一面トップに「福祉施設での体罰深刻」という見出しの記事が載りました。
記事の見出しだけを見ると、子どもの教育における体罰の問題かと思われがちですが、問題は体罰の是非ではありません。高齢者などに対しては、正確に言うならば「暴力」の問題なのです。なぜならば高齢者に対する「体罰」などという事は、どこから見てもそれを正当化する理由はなく、「暴力」でしかありえない行為だからです。
調査方法の検討には、身体障害者療護施設にお住まいの小峰和守委員の意見がたくさん活かされています。
全国では、このような実態調査をタブー視している地域が多いのではないでしょか。「施設側の抵抗感」(記事)のために、どこの県でもできるという調査ではないというのが、残念ながら日本の福祉の現状でしょう。特別養護老人ホームの経営の問題点を指摘した永和良之助論文が、「(論文は)すべての福祉施設に対する誤解と偏見につながる恐れがある」(愛媛新聞社説)という理由をもって施設側の抵抗を受けたことは記憶に新しい事実です。(詳しい経過は永和良之助論文特集にあります)
この調査の回収率は55.4パーセントでした。神奈川県内の福祉施設の体罰問題などが浮かび上がってきて、けっしてうれしい調査結果ではありませんでした。しかし、ここではっきりさせておきたいのは、回答した神奈川県内の施設が特別にひどい施設だったと、いうことではないということです。実際に抵抗感のある調査でありながらも、誠実に実態を調べて、事実を事実として認め、サービスをより改善しようとする施設が回答したのです。ぼくはこの神奈川の実践を誇りに思います。
全国の福祉施設の人権侵害が、多いのか少ないのか、どんな状況なのか、実態はよくわかりません。「体罰」や「暴力」についても過大に不安をあおる気はありません。それどころか多くの施設が、限られた人員の中で、サービスの向上をめざして精一杯頑張っているのです。だからこそ、「体罰や虐待が起きないことを前提」(記事)とするのではなく、福祉施設の実態を調査したり、実際に人権侵害を受けている人が安心して相談できるシステムを整備して、現場の精一杯の実践をより一層確かなものへと裏打ちしていきたいのです。
臭いものに蓋、寝た子を起こすな...というように、不都合な現実を直視しようとしない日本の体質。みんなが口を閉ざしている中で、ぼく一人だけがホントのことを話したりすると、なにかすごくラジカルな人間だと曲解されたりします。
立花隆さんの「税金を食べる人」
日本は、ほんとうに大丈夫なんだろうか。
イメージポスターでも剣道防具がビシリと決まる、ほかならぬ日本的父性礼讃者代表のような橋本さんの決断だ。総理にはきっと何か深い戦略があるはずだ。何故何のためにと興味を持ってみていたら、なんてことはない。ただ墓穴を掘っただけらしい。
ぼくにとっては厳しいことだが、社会福祉法人以外にも特別養護老人ホームの運営が認められ、福祉経営にもメガ・コンペティションの時代が来るのもよいかもしれない。もっていきかたしだいでは、かえって利用者にとってサービスの向上につながるのではないかと思うのだ。
「株式会社が福祉をやるなんてぇ」と眉をしかめる福祉関係者はいたとしても、市民から「介護サービスは社会福祉法人でなくてはならない」と言われるほど社会福祉法人は実績を積み上げてきただろうか。そのうえ前厚生事務次官岡光序治被告の贈収賄事件で、特別養護老人ホームと社会福祉法人の信頼は取り返しのつかないくらいの打撃を受けた。
メガ・コンペティションのもとでサービスの内容・品質保証を競うのならやりがいはある。
・・・とはいっても、自らの体質さえ改革できない政治状況を見ていると、官僚の省益優先体質への牽制は期待できず、介護保険財源を巡るあらたな護送船団の構築のほうが現実的なシナリオに思えてきてしまう。
永和良之助さんの講演会
湘南ふくしネットワーク・オンブズマン委員会では、来たる1998年1月24日(土)、江ノ島の神奈川県立かながわ女性センターにて、福祉における権利擁護をテーマとしたシンポジウムを開催します。
記念講演は、永和良之助さんにお越しいただけることになりました。
永和良之助関連リンク(愛媛新聞社リンク連絡済み)
永和良之助論文特集→このごろ思うこと(1)
今年の夏、ダイアナさんが亡くなった朝、ぼくはパリにいました。
福祉オンブズマン関連の新聞切り抜きを追加しました。朝日新聞・97.9.4 (246K.jpg)
父権復興
心の世界は深遠だ。
しかし、事象の表層だけしか見ようとしない人たちによって、神戸の事件をうわべだけの人権問題や、刑罰強化の力でねじ伏せようとする短絡的な解決方法にすり替えられてしまうのはあまりにむなしい。
神戸淡路の震災以来、ボランティアについての様々な論議がさかんになり、それ自体は結構なことなのだが、時に腑に落ちないボランティア論に触れることが多く、その度に思い起こされたのが上記の一文だった。
社会福祉労働が懲罰的に捉えられたり、ボランティアがペナルティとして義務づけられたりというような混乱は、アメリカの技法の翻訳に翻弄され、日本社会の固有性研究をおろそかにしてきた社会福祉学者の怠慢の結果だ。
4月11日にも、河合隼雄さんの「親父のアイデンティティ」を引用した。
しかし、今ぼくは何をしたらいいのか。
今のぼくと 神戸の事件
理想と現実は違うよ。
でも、悟ったようなしたり顔で大人を演じているような人間に、ぼくはなりたくない。
いま、子供達の「いのち」への悲鳴が聞こえてくるような気がします。
神戸の事件は、ぼく自身の生き方の反映のような気がしてなりません。
贈収賄の起訴事実を全面的に認めておきながら、国権の最高機関の国会では「金を一時借りるという認識だった」と堂々と語る福祉行政の前最高責任者。
大切なものは何なのか。
神戸の悲劇は、「いのち」の大切さに目をつぶり現実の物欲のみを優先している大人達へのへのアンチテーゼのような気がしてならないのです。
大人達が軽んしてしまっている「いのち」を、子ども達は叫びながら問うているのではないのか。
「いのち」はそんなに軽いのか。
彼が、殺すことによってしか得ることができなかったものは何か。
彼に、異常、狂気とレッテルを貼って、ぼく自身の生き方と切り放してはいけないと思う。
ぼくは、自分に正直に生きているだろうか。
ぼくは、ほんとうに生きているのだろうか。
被害者と加害者の子供と同じ世代の子を持つ親としても、身を切るこの痛みをぼくは正面から受けとめていきたい。
中空構造日本の深層
先日、茅ヶ崎環境文化研究所のページを更新しました。インターネットホームページは好きなときに気の向くままに創りかえていけるので、ぼくのような直感的な人間にとっては、とても便利な道具です。
6月9日から12日の朝日朝刊に、4回にわたり河合隼雄さんへのインタビュー記事が連載されました。その記事の中で、河合さんが「日本ウソツキクラブ会長」を公称している事を知り、ぼくもさっそく茅ヶ崎環境文化研究所案内係として「日本ウソツキクラブ会員」を自称させてもらうことにしました。
たまたまこの記事を読む直前に、15年ほど前に読んだ河合さんの「中空構造日本の深層」(中央公論社)を読みなおしていました。
「たとえば、最近、滋賀の原子力発電所における事故にまつわるその無責任体制が明らかにされたことなどは、その典型例であると言えるだろう。最も近代的な組織の運営において、欧米諸国から見ればまったく不可解としか思えないような、統合性のない、誰が中心において責任を有しているのかが不明確な体制がとられていたのである。このような無責任体制も、これが事なくはたらいているときは、案外スムーズに動いているものであるが、有事の際にはその無能ぶりが一挙に露呈させるのである。滋賀の原子力発電所を例にあげたが、日本の近代的組織は、時に驚くべき無責任体制であることを示す事実は、枚挙に遑がないであろう。」(「中空構造日本の深層」53ページ)
中空構造の内容については河合さんの本をお読みいただくとして、1982年の時点ですでにこのような指摘をしているわけですから、日本人の心の古層を探る河合さんの視点の鋭さにあらためて驚嘆します。
原子力開発という国家規模の巨大プロジェクトには大きな甘い利権がともないます。例えば反対に、いろんな地域に小規模な「風力発電所」をたくさんつくったとしても、技術がシンプルですから大規模な国家予算は動かず利権構造は生じません。それではなんの旨味もないわけです。
原子力技術には高度な情報機密と専門性と大規模な設備投資が不可欠ですから、政官に太いパイプのある財閥系の大企業しか参入できません。そこへエネルギー不足の御旗を振りかざし国家予算を湯水のように投入できるわけですから、こんなに美味しい話しはありません。
さて話しが横道にそれましたが、河合さんは、日本の組織が責任体制のはっきりしない「中空構造」を持っていると指摘しています。しかし河合さんは、「中空構造」自体が「悪」だと決めつけているわけではありません。
このページは思いついたことを随時書き足したり推敲したりしています。
ただし、7月1日と7月20日記載分は、神戸の事件へのその時の思いをそのまま残しておきたいので書き足しや推敲はしません。
このページのリンクは自由です
ご意見・ご批判は下記へどうぞ
この場で直接メールを出される方はここからです
戦後53年10月25日
今年(1997年)3月に出された「人権擁護機能のありかた検討会報告書」の調査結果の紹介記事です。ぼくも参加していた検討会でした。
インターネットボランティアCCNの谷林由紀子さんが、報告書の作成責任者である検討委員会の高山直樹委員長と神奈川県社会福祉協議会の承諾を得てテキストデータをもらいホームページ化しています。神奈川新聞の記事にも、このURLを書いて下されば良かったのにと思ったり...。
ふつうの社会の中でお年寄りに暴力をふるえば、それは刑事事件、警察沙汰の問題です。ところが奇妙なことに、福祉施設の中での暴力は問題として外に出てきません。それは、福祉施設という閉鎖的な「密室性」(記事)を背景に「今なおこれまでの慈善・救貧的な思想を残したままの上下・従属関係のなかでサービス提供が行われ」(報告書・高山委員長)ている事を示しています。
たとえば、対等もしくは上下関係が逆の、ホテルのサービスを想像してみて下さい。ホテルの従業員が客に体罰(とは呼ばないでしょう)を与えたりしたら、大事件になるでしょう。
アンケート用紙の「記入方法」についても、「本人が最も信頼する人」に「聞き取り」を手伝ってもらえるようにと特記しました。このようなきめ細やかな配慮は、施設利用者の立場でないとなかなか気づかないことです。
記入し終えた回答用紙も施設で取りまとめるのではなく、回答者が個々に直接県社協宛に返送できるようにしました。もちろん「施設長が目を通さなければ提出してはならない」とするような施設では回収できません。しかし、県内の多くの施設がこの調査の主旨を理解し、回答してくれたのです。
事実を事実として認めようとすると「自虐的」だといわれたり、人権擁護を語ると「正義の味方」と茶化されたり・・・こんな事を書いていると、いろいろ風あたりが強くてぼやきたくなります。
ただ、我慢している人、あきらめている人、苦しみを訴えたくとも話すことすらできない人がいると思うと、ぼくはなんだか落ち着いて働いていられないのです。
福祉の現場では、いろんな行事が盛りだくさんあって、利用者の人々と楽しく過ごすことができます。ぼくは、本当に心から安心して楽しく働きたい。ただそれだけの事なのですが...。
戦後53年10月7日
今回の佐藤孝行さんの総務庁長官就任・辞任劇はいまだにわけがわからない。
もちろん永田町の世界なんかぼくにはわからないけれど、立花隆さんの
「派閥ボス・ゾンビに操られ 自分の首を絞めた橋本首相(97/09/18)」(リンク連絡済み)は明快だ。 <世の中には、3種類の人間がいる。「税金を払う人」、「税金で食べる人」、「税金を食べる人」である。 税金を食べる人が結託して、税金を払う人を食い物にしてきたというのが、 これまでの日本国の政治の構図だった。
そう。ぼくは、まさに「税金で食べる人」だ。
税金を食べる人は、その存在自体が許せない。 「お前ら死ね」といいたい。税金で食べる人には、「お前らもう少しまじめにやれよ」といいたい。 自分が国庫からいただいている金額にふさわしい仕事をちゃんとやっているか、胸に手をあてて考えろといいたい。そして税金を食べる人とは、死んでも結託するなといいたい。 それだけは守ってくれないと、税金を現に払っている人は、払う気が失せてくる。 日本の政治の水準を、せめて税を払う人が納得して払える水準に保ってほしい。>
特別養護老人ホームの措置費は税金だから、ぼくは「胸に手をあてて考え」なければならない人間だ。
立花さんの指摘は鋭い。
<もっぱら、医療制度の改悪、年金制度の改悪などによって、 国民に対するサービス内容を低下させた上で有料化を拡大するというインチキぶりである。 いわば福祉サービスの受益者負担という名目の下に第二の税金取り立てを制度化することによって 国民の懐から資金を吸い上げて国庫に入れようということなのだ。>
現時点での賛否は別として、公的介護保険制度が導入されれば保険料には租税も補填され結果的に目的税化される。
福祉の独自財源化は、「税金で食べる人」であるぼくからみると正直なんとなく頼もしく感じたりもする。しかしその感覚は、既存の護送船団方式に守られたぬるま湯的措置費経営感覚の賜物だろう。「胸に手をあてて考え」なければならない。
何故そんなふうに思うようになったのか。
こんなHPを開いていると、ぼくのもとには福祉関係者から様々な現場の悩みと供に内部告発のメールが届く。匿名メールに関してはその真偽を話し半分にしか受け取れないが、中には具体的な内部資料を添付してくれる人もいる。それが一般的なことなのか特異稀なケースなのかはぼくにはわからない。しかし保守的な地域の閉鎖的な現場ではとんでもないことが平然と行われ闇から闇へ葬られているようだ。それらは儲けをあげない非営利だから信頼される筈の公的機関や社会福祉法人のもとで行われている。既得権に守られた競争のない聖域の中での出来事だ。
もちろん地域に開かれ市民に信頼されている社会福祉法人は各地にある。しかしそれなら堅実な経営と質の高いサービスを提供している株式会社だってある。社会福祉法人は非営利だから全てが「善」、株式会社は儲け主義で全てが「悪」というステレオタイプな概念やイメージで参入を拒むのは、今回の永田町劇同様、市民感覚の見当識を失った説得力のない理屈だろう。(そういえば郵政利権で食べる人、郵政利権を食べる人達も、同じような理屈を主張している)
しかし健全な競争には、必須条件がある。
福祉サービスに対する異議申し立てを気楽に安全にできる第三者機関、福祉オンブズマンのようなマトモな権能を持たせた相談機関が不可欠だ。また、小回りのきく地域に根ざした個人財産の保全管理サポート機関の創設も必要だ。
「税金を食べる人」にとって独自財源化された福祉予算は格好のご馳走に映るだろう。医療も福祉もそれぞれの分野から有利な保険点数の配分を期待している。シルバービジネスへの参入をめぐって保険会社や大手資本も保険請求権の枠組みに対して様々な働きかけを強めている。そんな中、新たな族議員達の動きも活発になってきているという。
「税金を払う人」には見えないところで、またいろんなトンネル機構が天下り達によって構築され「税金を食べる人」が潤っていく・・・。なんていうことになるんだろうか?
「税金を払う人」たちが、それでもしかたないといつまでもあきらめているんなら、どっちへいってもおんなじだろうけど。
戦後53年9月23日
もちろんどなたでも参加できます。詳しい案内パンフは、ふくしネット事務局がいま作成中です。できたらすぐに掲載します。 →正式な案内ページができました!
鬼も笑う来年の予定ですが、手帳に丸をつけといて下さいね。
愛媛新聞社・97.3.15 地軸 高齢者福祉の現状
愛媛新聞社・97.4.1 社説 県老人施設協議会は頭を冷やせ(←必読)
愛媛新聞社・97.4.11 出来事 県老施協実習を受け入れ
愛媛新聞社・97.5.8 出来事 聖カ大助教授申し入れ
愛媛新聞社・97.7.17 出来事 福祉オンブズネット発足
今年の夏休み
なぜか不思議なのですが、ぼくは旅に出ると、ふだん自分が気になっていた疑問や課題を深める出来事に遭遇したり、偶然求めていた人に出会ったりする事が多いように感じます。
旅という非日常性の中で開放された感性が、様々な共時性を引き寄せるのかも知れません。(オカルトチックな表現かな)
カトリックの総本山バチカン市国で、マザー・テレサさんの死を知りました。
今年の夏はいろいろ考えさせられました。
思いがたくさんこみ上げてきて、なかなかまとまりません。
ぼちぼち書いていくつもりですが...。
戦後52年7月20日
自分自身の心の奥底にも、意識できない闇の世界が広がっている。
闇の世界は、見ないで済むなら見ない方がよいのかもしれない。
意識化されていない世界の、その本質が見えてしまうことの恐怖は、夜の海の引き込まれそうな黒の世界に似ている。
たましい いのち 聖なる儀式 神 ....
個の意識は、深層の意識下で社会全体の意識と呼応しているともいわれる。ぼくのような直感的な人間があまり深く考え込むと、あちらの世界から戻ってこれなくなりそうな恐さを感じてしまう。
この恐怖は、自分の中にもその世界があることを知っているからだろうか。
案の定、父権喪失論も叫ばれてきた。父権復興で、今の子ども達を鍛え治せと。
今回も、6月25日に紹介した河合隼雄さんの「中空構造日本の深層」から再度引用させてもらう。
「しかしながら、「父権復興」を叫ぶ人たちの多くが考えているのは、日本的な父性、あるいは母性的集団とも言うべき日本的軍隊の復活ではなかろうか。今どきの弱い、あるいは身勝手な若者を徴兵によって「鍛えてもらおう」などと考えている人は、自らの父親の強さをもつことを放棄し、それを集団にまかせようとする、きわめて母性的な発想を抱いているのである。このことは、われわれ臨床家が常に経験するところであり、自分の子供を「強く鍛え直す」ことを主張する多くの親は、それを自らやる意志はなく、他人にゆだねようとする姿勢を示し、その弱さ故にこそ子供の強烈な反発を惹き起こしているのに気づかないのである。このようなことに気づかずに、父権復興のかけ声に乗せられ----かけ声に乗ることがそもそもの父性の弱さを意味するのだが----あわてて徴兵制復活などをするならば、日本の誇る中空性の中央に、低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性の進入を許すことになり、戦争中の愚を繰り返すことになるのみであろう。」(「中空構造日本の深層」56ページ)
時に腑に落ちないというのは、例えば交通違反者に懲罰的かつ更正の場所としてボランティア活動を「させる」というような発想や、徴兵制の復活とからめて徴兵忌避者へ「ペナルティ」としてのボランティアを「させる」というような一部政治家の意見などだ。
信仰の理由等で兵役以外の社会貢献の手段として主体的に福祉の現場で働くことを選択するというな積極的な社会参加ではなく、ボランティアの名を使って懲罰や更正訓練を目的化してしまうとは、まさに「低劣な父性」の見本のようなものだ。
・・・などと、現場の実践家としての自分を棚上げにして学者のせいにするのは簡単だ。
「昔の父親は強かった、怖かったと言いますが、そんなもんは、ひとつも強くない。」「個人として闘うということを、日本人はしないんです。」
個として自分自身が行動するのではなく、専門家や組織に鍛えてもらおうとする人たち。警察権を強化し刑罰を重くする事だけで問題を解決しようとする人たち・・・
あまりに重く。
先が見えない。
戦後52年7月1日
オンブズマンだ情報公開だ・・・
高橋の考えは青臭い。
たしかにぼく自身、自問するとそんな気はします。
原子力発電のような地域全体を壊滅させるような危険に目をつぶってまで自分達の私利私欲を求める大人達。
それらを「しかたない」とあきらめる ぼくを含めた多くの大人達。
ぼくらはそれを示す生き方をしているだろうか。
今の大人達が示そうとしない、ほんとうの「いのち」を実感してみたい。
14才。中学3年生。
彼は自分自身に何を問いかけていたのだろうか。
切断という行為を通じてまで求めざるを得なかった殺しの実感。
死を体感してみる行為を経てしか実感する事のできないほど軽んじられた「いのち」。そして大人達の不確かな生。
戦後52(1997)年6月25日
最近、原子力関連事業の相次ぐ事故で危機管理における動燃の無責任体質が明らかになりましたが、河合さんはこの本の中で下記のような指摘をしています。
ぼくはもともと、原子力は人類が手を出してはならない技術だと直感しています(理屈抜きの直感です)。
また阪神淡路大震災時にも明らかになりましたが、日本人の危機管理能力を考えると、超一級の危機管理体制が要求される原子力関連技術に、ガバナビィリティーの稀薄な日本人が手を出しているということ自体、本当に空恐ろしい事です。
プロジェクトは、でかければでかいほど儲かるという構造は、永和論文の指摘にも共通する利権構造です。
そこに群がり巣食う人たちの欲望によって推進されてきた原子力産業も、冷戦構造の終結にともなう世界規模の低成長経済時代を迎え、世界的には撤退を余儀なくされています。まさに現金なものです。
しかし見当識のない日本の政治家と硬直した官僚組織は、世界の中でも最後の最後まで原子力プロジェクトにしがみついているようです。
まだまにあうのなら日本人や周辺地域を遺伝子レベルで変形させるような取り返しのつかない事故を起こす前に、なんとしても廃止させたいと願っています。
ぼくは「中空構造」を持つ日本人のひとりとして、インターネットの持つ中心のない情報環境を活用して、日本特有の「中空構造」を肯定的に再構築できないものかと考えています。
インターネットという新しい道具を用いて市民権をエンパワーメントし、地域を語り、地域を創る動きをつくる。CCNは、そんな関係性創りを手探りするためのフィールドとしてぼくの中に位置づいています。
また、茅ヶ崎環境文化研究所も、さまざまな個性を持った人たちが取り巻く中で、「中空構造」を持つゆるやかなコミューンとして成り立つことができないかと夢みています。
論文ではありませんのでインターネットならではの柔軟さを活かして気ままに書き足していくつもりです。
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高橋健一
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(戦後52年5月28日)監査の強化が必要なのか?
(戦後52年5月25日)永和さんからの手紙
(戦後52年5月4日)スウェーデンの社会サービス法/LSS法
(戦後52年5月3日)愛媛県老施協「実習保留」取り下げ
(戦後52年4月11日)母性社会日本の病理
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